強烈な怒りや恐れに直面したら、腹部などに反応が出ることがある。ストレスで胃が痛いというような。そうなると無心になってもすぐにはおさまる気配がなく、集中力と忍耐が必要。怒っている自我を直視することが、怒りから離れるうえで効果的。怒りが長期に続くと病気につながる。
自我は他人の噂話や陰口を言う。大体その時は、自分に都合の良いように話を少し変え、相手を少しおとしめる言い方をする。そして聞く側は、その一次情報だけを聞いて話の全体像だと思ってしまうことがある。両者の言い分を聞かなければ公平ではない。ただ噂の本人が自我への囚われの薄い人の場合、言い訳も批判もせず事実だけを説明し、陰口を広めた相手と同じ土俵にのらない傾向にある。穏やかで清らかな人にとって、陰湿で下品な行為は選択肢にない。
あちこちで誰かの悪評を広める人は自我に振り回されている。よって自分を良く見せたり、誰かが落ちぶれることを期待している。よって真実を歪めて話す。自我の薄い人はそもそも人の陰口を言わず、悪評を広めることもしない。
誰かの陰口を言うと、それを聞いている人の中には「私のこともどこかで悪く言ってるんじゃないか」と思う人がいる。すると陰口好きに本音を言わなくなり、性格の良い人は距離をとり始める。
誰かに非難された時、言い返したり言い訳したくなる。そんな時も忍耐強く黙っていると、自我に振り回されない訓練になる。
自我は自分の非が誰かに明るみにされそうな時、怒り出しやすい。負けを認めない自我の抵抗。
小言の多い人が円満な関係を築けることは少ない。家庭でも職場でも。
人間は自我が薄まるほど自立する。よって相手への依存度がなくなってくる。ただ誰もが自我を持っているため依存心があり、人間関係に疲れてくる。そのため距離を考える必要がある。数ヶ月に1回しか会わないからうまくいく人間関係がある。毎日会ってるほうがうまくいく関係もある。毎日会ったとしても、1日2時間だけならうまくいく関係もあり、8時間になるとストレスになる関係もある。恋人とでも何日も一緒にいると、1人になりたくなる時がある。相手との相性によって会う頻度を考えた方が、人間関係の問題は減る。それは家族であっても、恋人や友人であっても。
意識として在るというのは、自立するということ。他者への依存心も思考からやってくる。寂しいから誰かと一緒にいたいや、同じ人にいつも助けを求めるなど。
依存度が高い関係ほど悪化しやすくなる。仕事でも人間関係でも。
人間は自分で人生を選択しているようで、実は過去の記憶に影響を受けた言動を無意識に繰り返している。よく浮気をされる女性は浮気しそうな男性をいつも選ぶ。借金をする男性は何回も借金する状況に陥る。
いじめをする人には共通点がある。それは「私」という自我が強い人。いじめをするほど自我に囚われている人は、暴力など攻撃的な行動をすることが多い。自分しか見えていないため、他人の痛みへの共感能力が低い。
自我が強い人ほど人の好き嫌いも多くなるため、組織の中では仲間はずれや分裂を引き起こす原因になる。
性格の悪い人は自分が嫌な性格だと気づいているが、なかなか自分を変えられない。それは日々無意識に起こる思考に、振り回されていることに気づいていないため。
自我は無視や絶交という極端に冷たい行動をとるが、反対に一度受け入れた相手には義理堅いという反対の面もある。意識はそのどちらにも囚われず、相手がどういう態度でも同じ愛情を示す。
突発的な思考によって言動が起こる。もしその内容が暴言や暴力であれば、接する相手にとっては辛いものとなる。この行動も過去の記憶が引き金となっている。それに気づかなければ、相手を傷つける行為も治らない。強烈な心の傷は、強烈な突発的思考によって簡単に心を占拠し、ネガティブな行動を起こさせる。
幼少期に親など周囲の愛情に恵まれなかったり差別や虐待を受けた子供は、やがて不良行為や反社会的行為を行い、周囲へ迷惑をかけることがある。本人は心の底に寂しさを抱えていて、誰かにかまって欲しくて迷惑行為をし、人の注意を引こうとする。例えば心の寂しさを埋めるため騒音を出し、誰かの気を引こうとする車やバイクでの暴走行為のような。そういった行動も過去の記憶が無意識の突発的な思考としてやってきて、その人の言動を決めている。迷惑行為が多いと周囲の恨みを買い、それにさらに反抗してと悪循環に陥る。これについても、無心になることは解決につながる。意識として在り、注意深く思考を観察し、過去の記憶が自動再生された時にはそれが一時的なものであると認識して、再び無心に戻る、ということを習慣化する。あとは本当に習慣化しようという本気の決意がいる。
自分を雑に扱う人は、他人からも雑に扱われる。自分を大事にしている人は、他人からも大事にされる。
普段から自信なさげにしていると、誰かからの指図や攻撃が増える。自我はいつも誰か攻撃する対象を探していて、自信なさげな人を雰囲気で感じとる。それはちょうどよい標的。結果を出さなければならない仕事やスポーツでは、自信なさげにしていると仲間から責められる。仲間の自我は、自分が負けることや損させられることを恐れる。自信過剰は油断を生むが、無心になると自信の有無に囚われない。
普通の日常では誰もが普通の言動で過ごしている。ところがある瞬間、思考が突発的に起こり、その人の過去の記憶が自動再生され、急に冷たい態度、攻撃的な態度や気分屋になったりする。やがてそれがおさまり普通に戻る。これが頻繁に起こると付き合う側は疲れる。
お酒を飲んで酔っ払うと、過去の記憶が自動再生されやすくなる。それにより酒乱や愚痴っぽくなったり、普段は表に出さない性欲が出てくる。すべて突発的な思考。
誰にでも自分で気づいていない思いグセがあり、突発的な思考は心の深い場所に刻まれていることがある。それは劣等感、トラウマ、妬み、恨み、自分の得だけを考えるなど。それに気づいていないとその行動は誰かに迷惑をかけ、評判も悪くなり、攻撃もされる。まず1日3分でも目をつぶって静かに座り、心に意識を向けることから始めてみる。すると色んな感情が起こってくるが、その一つ一つを観察し、それに振り回されていた自分に気づくことが第一歩。繰り返していけば、感情が起こるたびに気づくクセがつく。気づくとその瞬間思考が止まり、振り回されなくなる。そうして足を引っ張る思いグセは消えていく。
思考にいつも気をつけていないと振り回される。初期はいつも気をつけることを面倒に感じるが、習慣化してくれば無心の方が楽になる。
無心がクセづいてきて、穏やかな心が維持されたとする。ただそれは一時的な心配事の不在かもしれない。やがて何かの危機に直面すると、心を悩ませることがある。
人間が自我に振り回されている間は、他者への攻撃を根絶するのは難しい。「私」というものがある限り自分を優先して守り、評価を高めようとする。自我が嫌な思いをすれば、相手への攻撃が始まる。攻撃の受け取り方によって、それがイジメかどうかが分かれる。イジメがよくないと広めることは良いが、自我への囚われが強い者にとってモラルは表面上の話に過ぎず、現場では自分が相手に勝つことを考える。いじめは中長期的に同じ場所で一緒にいなければいけない時に起こりやすい。そういったことを回避する環境を作った方が、イジメを回避できる。単発的な嫌がらせであれば、あの人には近づかないでおこうという教訓的な出来事になる。
自我が薄まるほど、本気で相手を負かしたいという気持ちや競争心もなくなってくる。勝たなければ意味がない、勝つ必要がある、と考えるのも執着であり自我。それが苦しみにもなる。
競争をしているように見えても、そこに勝ち負けにこだわる思考がなければ、じゃれ合いや楽しみ、適度な運動があるだけ。勝ち負けにこだわり始めると、苦しみと優越感という自我が生まれる。
絶頂期を迎えるということは、やがてそれが去った後の苦しみに直面するということ。もし執着するなら。
毎日無心にならなければならないも一つの執着。形に囚われずリラックスしてただ無心になる。
執着しないことに執着すると本末転倒。
無心が習慣化されても、瞬間的に恐れや苦しみの突発的な思考は起こる。しかし習慣化されているとその思考にすぐ気づき、ただ消えていくのを観察するようになる。
世に出始めた新しいことは批判が起こる。携帯電話もパソコンもインターネットも。批判の裏には恐れや不安、拒絶、過去への執着という思考がある。
物質的なものを追うことに良い悪いはなく、存分に得れば、それが自分を本質的な意味で幸せにしてくれるものではないことに気づける。
人はストレスがかかった時、自分について、原因について考え始める。すると自分の至らないところを直そうとしたり賢くなったりする。苦しみはさけたくなるが、正面から向き合えば成長につながる。
自我があるかぎり誰もが何かで苦しんでいると知っていると、相手への共感の気持ちと思いやりの心が芽生えてくる。それは一時的に起こる妬みや怒りの感情を抑える助けになる。
物など外部的なものに価値観を置いたまま結婚すると、精神的に苦しくなる。自分の時間がなくなる、自由に使えるお金がなくなる、相手の言動がストレスになる、仕事をやめられない束縛感、将来への不安。これらは自分より外側の事を求めるから苦しむ。ただ反対に、本質的な内面の価値に気づくための良いきっかけにもなる。
恋人でも結婚でも2人が意識として在ることを知らなければ、「私」を優先する自我が相手にあれやこれやを期待し始める。相手が期待に応えてくれなければ失望に変わる。自我が強いもの同士は期待も大きくなり、相手への不満も大きくなる。期待も失望も思考。自我の薄いもの同士は、相手への期待よりも思いやりが大きくなる。
自我は何に対しても「私」の喜びを考えて期待する。そして失望もする。
誰かに期待された時、それに答えなければ失望されるという恐れがあって動くことは、直感的ではなく自我の保身。ただ期待してくれる相手の善を思って行動することは愛情。
自我は静かにじっとしていることができない。何もすることがないと不安になる。だからいつも何かを考えて動きたがる。何かしなければならないと考える。
自我は退屈や寂しさに耐えられず、携帯電話を見たり、友達に会ったりして気持ちを紛らわせる。これらの感情も思考から来るもので、無心になると消えていく。
もし突然体調を崩して入院すれば、不安な気持ちになる。そんな時に無心に取り組むと、頭の中が恐れという思考に占拠されていることに気づける。無心になれば恐れを客観的に見れる。楽しい気分にはなれないが、良い訓練になる。
無心になり意識として在る時、分割はない。思考して言葉や文章として表す時、分割が起こる。良い悪い、早い遅い、嬉しい悲しいなど。分割のない状態は思考のない状態。その説明として言葉は役に立つが、説明できるのはその入り口まで。
意識は思考がなくても在り続けるが、思考は意識がないと働かない。
日常生活で妄想することがある。妄想は思考で、何かを期待した物語、不安に関する物語などを作る。睡眠中に見る夢も、思考が日中に経験した出来事から作り出した物語や、直感的なものを見ているということがある。
何かを得る喜びは一時的。自我が強いほど、どれだけ得ても満足することはない。
思考力は道具。携帯電話と同じで使いこなせば便利だが、依存すれば振り回され中毒となる。
アルコール中毒、薬物依存症、ゲーム中毒などの中毒症も、過去の心地良かった、気持ちよかった、楽しかった記憶が無意識な思考として心を占拠し、その人の言動を支配する。だから何度も同じ行動を繰り返す。突発的な思考に無意識ということ。
お金の社会では自我の喜ぶものが売れる。刺激的なもの、中毒性のある物、スキャンダル。薄味よりも濃い味、甘い味。静かな人より喋り上手や面白い人。自然の風景よりもエンターテイメント、映画、ゲーム、格闘技、スポーツ。すべて五感を刺激し、それによって退屈しない。いつも何かを求める自我は喜ぶ。静かで動きがないものを自我は嫌う。ただうるさい場所で疲れた後、静かな所に出て穏やかさを感じることがある。それが意識として在る状態の心地よさ。
自我は常に何か刺激を求める。それに慣れていると無心になることは退屈に感じる。そうなると無心への真剣味は下がり、3日後には忘れている。無心への取り組みは三日坊主で終わりやすい。本気の決意と長期の継続がいる。
何かを見て記憶に残ると、ふとした時にそれを思い出す。それがわかりやすかったり、覚えやすいものであったり、中毒性のあるものならなおさら。それをいつも見ていると、親近感をおぼえる。突発的な思考に無意識であると、その思考に身体が反応する。すると物を買ったり、そこへ行ったりと行為をする。広告宣伝がわかりやすい例。
自我は競争で勝って利益を得るため、科学技術を発達させる。しかし科学が発達しても、人間の無心への取り組みが発達しなければ自滅する。
人は死を恐れて苦しむが、死がなかったとしても老いに苦しむ。そう考えると死の見え方が変わる。
物質はいつか必ず崩壊する。家も植物も体も太陽も。この世界で永遠と続くものは意識だけ。
葉は始めは水々しくて柔らかく、やがて干からびて硬くなり散る。人間の体も若い時は水々しくて柔らかく、歳を取ると固くなって水気もなくなり、最後に死ぬ。心も素直で柔軟で前向きな人は自我の影響が薄く若く見られ、強情で聞く耳を持たず固定観念に縛られた人は自我の影響が強い。年老いても心の若い人はおり、若くてすでに老いたような人もいる。
赤ん坊は蜂が刺してくる知識がないため、蜂が飛んできても恐怖を抱かない。大人は蜂が刺すかもしれないことを知っており、それは痛く、恐怖で、とっさの防御反応として出る。つまり過去の記憶から来る思考と行動で自我の防御反応。蜂に刺されそうな赤ん坊を、母親が捨身で追い払おうとする行動は愛情からくる行動。つまり意識からくる直感的行動。
世の中を観察すると傾向が見えてくる。例えば世のため人のためを思って行動すれば、その人は誰かから喜ばれ感謝される。反対に自己中心的な考えで行動すれば他人から嫌われる。人にプレゼントすればお返しをもらえ、人を殴れば殴り返されたり逮捕されたりする。つまり思考が前向きか後ろ向きかで、その後に起きる現象もそれに応じたものとなって返ってくる。
思考は良い思いで使えば良い結果が返ってくる。悪い思いで使えば悪い結果が返ってくる。
疲れている時、イラだっている時は何かしら問題が起こる。後ろ向きな思考は後ろ向きな出来事を生む。
自我の視点で見れば「私」の人生。意識として在ると、「私」も「私の人生」もない。唯一である意識は「私」の誕生前からあり、誕生後もあり、死んだ後もある。意識として在るとき、生死を超越する。
自我がある限り問題と苦しみが生じる。その苦しみは自我に気づかせるきっかけで、敵ではない。攻撃、妬み、恨み、劣等感、執着心などの感情は苦しみを生み出すが、その出来事は自我に気づくためのきっかけ。過去に克服できていない感情があれば、それを克服するための出来事が起こる。
自分が自我に囚われていたことに気づくと、人間の歴史は自我に囚われてきた歴史ということが見えてくる。
○組織とリーダー
誠実な人が多くなるほど組織の動きは調和し、友好的で雰囲気も良くなる。誠実とは自我への囚われの薄い人、もしくは意識として在る人が見せる性質。反対に自我の強い人が組織に多くなると非協力的になり、動きは調和せず、不正と不和も増える。
人々は争いや戦争を好まない。もし争いになれば、自我は相手に勝って自分たちは無事でありたいと考える。相手も同じことを考えている。だから争いそのものが起こらない方が良い。そのためには内面に争いがない人物をリーダーに選ぶ必要がある。それもあらゆる場所、段階で。そうでなければ自我の強いリーダーが現れ、自分たちの無事を優先して争いを始める。それは周囲への不安を生み出し、武装する人々が増え、緊張が高まり、争いが大きくなる。この悪循環を世界中の人が知ることが、良いリーダー選出の第一歩となる。
国民は軍隊を自国と自国民を守る組織だと考える。しかしその国のリーダーが独裁者のように自我への囚われの強い人物の場合、軍隊は国民に脅威を与える存在になる。例えば政策に逆らえば逮捕したり銃撃したりと。つまり自分たちを守るための軍隊は、自分たちを脅かす存在にもなる。だから軍隊そのものを持たない方が良い。
自我が強い独裁者がリーダーになると自分の得のために動き、人民の意見は無視する。意識として在る者がリーダーになると全体の善のために動き、人民の意見を尊重する。それ以外のリーダーは、この間に位置する。
自我が強い者がリーダーになると、なんとしてでも自分の立場を存続しようとする。するといつまで経っても引退せず、法律を変えてでも権力の座に居座ろうとする。これが独裁者であると恐怖政治が行われ、人々は軍隊によって攻撃され、逆らえなくなる。人々は慎重にリーダーを選ばなければならない。
独裁者は自分と自国の批判を禁止する法令を国民に出す。「私」を守ろうとする自我の行動。
自我が強い強欲なリーダーは、嘘つき、泥棒、詐欺師という言葉が当てはまる。
自我の強い者は周囲に敵が増えて自分の立場が不利になってきても、まだ強気の姿勢を崩さない。それまで強気の立場で周囲を怖気つかせてきた方法を繰り返す。また自我にとって怯(ひる)むことは負けを意味する。それでも突き進みいよいよ立場が危うくなってきた時、相手へ譲歩するか逃げることが多い。
国という大きな単位でも、仲間内の小さなグループでも、自我の強い者は恐怖によって人々を支配する。
自我は自分が傷つくことを恐れるため、自我の強いリーダーは自分へ反抗する者がいないかどうかいつも恐れている。そのためいかに人々を監視するかと方法を考え始める。そして人々は自由に発言できる雰囲気を失い、暮らしも窮屈になる。やがて政府は法律も変え、政府へ反対意見を言う者は逮捕される。
国のような大きな組織から地元の小さな組織まで、自我の強い人物がリーダーになると、組織の状況が悪化してメンバーに非難されても、簡単に権力の座を渡そうとはしない。その後批判が高まりデモが起こり始めると、身の危険を感じて逃亡する。それは国外かもしれないし、身近な隠れ場所かもしれない。それでも権力の座は保持したまま逃亡する。
我欲の強いリーダーが不正を行い、それで組織の状況が悪化したとする。すると組織の中からそれを正そうとする者が現れる。しかしこのリーダーはその現れた人物を自分を失脚させる脅威と見なし、解雇しようとする。
自我の強いリーダーは平気で嘘をつく。周囲の者に将来への期待をもたせるような発言をして、結局それを行わない。例えば自分は権力には興味がないと言いつつ、立場を変えてでも影響力を保持しようとしたり、あれこれの改革するなどと約束するが、見せかけだけの改革に終わるなど。つまりその場しのぎの嘘を言う。
自我の強いリーダーの中には話術に優れた者がいる。そして自我が強いということは恐れも強く、周囲の反対意見を敏感に察知する。そのため抵抗が起こりそうになると、すぐさまその場しのぎの嘘で巧みにその場を収めようとする。もし周囲の者が自分で考える能力や分析力が低かった場合、その嘘によって言いくるめられる。
自我が強い者がリーダーになると、その家族や息子に権力を譲ったり、特別な役職においたりする。そうして同じ家系による支配が代々続いていき、国民が苦しむ。
仕事ができる、頭が良い、積極的に動ける、声が大きく強そう、口が達者、目立つ、怒らせたら怖そう、服装や見た目が立派、威厳がある、などの性質を持つ人がいる。組織の中では自然とリーダーに選ばれることもある。ただこれらの要素の前に、その人に誠実さがあるかどうかを見なければならない。それによってリーダーの決定が全員のために良いものなのか、一部の人にとって良いのかが決まる。誠実で頭が良いリーダーが目の前の富を分配する時、様々なことを考慮して全体の善を前提に公平な分配を目指す。頭は良いが不誠実なリーダーが分配すれば、自分とその近しい人だけがいかに得できるかで分配する。誠実なリーダーが叱る時は、相手の成長を思って叱る。不誠実なリーダーが叱る時は、自分の言う通りにしなかったことへの仕返しとしてや、今後自分が損させられないようにと叱る。
頭脳明晰で、能力は高いが不誠実で我欲の強い人間がリーダーになると、短期的には成績が上がったり成果を得ることがある。ところが中長期の視点で見ると不平等や独裁的な決定が行われ続けるので組織は腐る。それに住民も巻き添えになる。だから第一優先として誠実な性格の者を先に選び、その中で能力の高い人をリーダーに選ぶ。
仕事ができるという理由でリーダーにすると、そのグループのスタッフが苦しむことがある。リーダーに人のことを思いやる誠実さと愛情がないと、できない人への攻撃が始まる。
自我の強いリーダーは、部下の手柄を自分の手柄として自慢する。
リーダーが判断をする時に、自我が入るほど適正な判断から遠のいていく。例えば怒り、恨み、劣等感、個人的な利益など。
やられたらやり返すというリーダーは、リーダーにふさわしくない。目の前の問題は沈静化しても相手の恨みは残り、その仕返しは1年後、10年後、50年後かもしれない。
この人に逆らったら仕返しされそうと感じさせる人をリーダーに選んではならない。またそういうリーダーを選ぶ人は恐れからで、偏った視点で判断している。
リーダーが不誠実なら、その組織は居心地の良いものにはならない。
性格の悪い人は嫌われ、性格の良い人は好かれる。人は性格の悪い人が仕切る組織には属したくない。だから性格の良い人をリーダーにする必要がある。性格の良い人とは自我への囚われが薄く、意識として在る人のこと。
リーダーが粗野であると、粗野ではないスタッフはそのグループに属していることを恥に感じる。特に他人に知られた時は。
リーダーには肩書きよりも信用が必要。信用を得るには誠実さと実力。信用があれば、肩書きがなくてもスタッフは信頼して話を聞き、動く。肩書きだけでは、スタッフはとりあえず表面上は従っているように装う。
自我の強い者が親分になると、その後に待ち受けるパターンはある程度似てくる。それは次のように進む。
自我が強い者が親分になると類は友を呼び、同じく自我の強い者がその周囲に集まってくる。それが子分となり、イエスマンになる。その子分はゴマをするのが上手く、親分が喜びそうな一言や行動を巧みに見せる。そして親分から特別扱いを受け、早く昇進したり、特別なポジションを与えられ、給与や取り分が他よりも多かったりする。
親分も子分も我欲が強いため、自分達ばかり優先する。すると組織にいるまじめに働く他のメンバーは、一生懸命働くことが虚しく馬鹿らしく感じてくる。そして組織の連帯感や自制心はなくなってきて、あきらめもあり注意することもなくなってくる。こうして組織の腐敗や汚職が進む。
この段階になるともうまじめなメンバーが、親分や子分達の行動を指摘して止めることは難しくなる。なぜなら自我の強い者は攻撃的でいじめ体質であり、指摘しようとする者は自分が攻撃され解雇される危険性を感じるため。
自我が強いという性格の似た者同士、気が合い、親分と子分の初期段階の関係性は心地が良い。ところが欲望を自制する力に欠けるため、親分はやり過ぎることが増え、安定した決断に欠ける。例えば自分の取り分だけ異常に多かったり、組織の資産を不正に使用したり、節度のない指示が多くなったりなど。子分も自分たちへの分配が親分ほどに多くなければ妬み、不満が溜まってくる。子分達は基本イエスマンで、親分を恐れているため面と向かって主張することはほとんどできない。
そうして誰も親分の暴走を止めることはできず、組織の運営が傾き、子分達も自分の危険を感じ始める。すると今度はその子分達が親分の敵になり始める。そうして内部分裂が始まり、それまで自分たちが親分にゴマをすって特別扱いを受けていたことはなかったかのように振る舞い、正義を振りかざし始める。ここで典型的なのは、我欲の強い親分はどんなに自分が悪くてもそれを他者のせいにでき、嘘をついてでも自分は被害者だと主張する。またそれを外部の人間に真っ先に主張し、仲間を増やして優位な状況を築こうとする。この時、場合によって親分は現場から逃げ、身を隠す。
その後、運よく組織は潰れず、紆余曲折あり親分が組織から去ったとする。これで問題が解決するかというとそうはならない。前の親分と似た自我の強い子分達の誰かが新しく親分になり、影響力のある立場につくと同じことが繰り返される。この時まじめなメンバーが子分達の過去の過ちを指摘しても、子分はそれを認めず、すべて前の親分の責任にする。つまり自我の強い者は常に誰かのせいにするため同じことを繰り返し、成長がない。そして当たり前のようにその後、自分たちだけ取り分が多かったり、特別扱いをするということが起きる。こうして負の連鎖は続く。
この連鎖を断ち切るには、自我の強いメンバーを一新するしかない。ただ子分達は我欲が強いため仕事を意欲的にこなすタイプが多く、内外への影響力も大きい。だから子分達を一新するのは、よほど次の誠実な親分に実力と覚悟がないと難しく、子分達から恨みを買うことも恐れない勇気がいる。つまりこうなる前に、親分を選ぶ段階で、その人物は自我が強いかどうかを見極め、誠実な者を選ぶよう心がけなければならない。良くも悪くも結局、その影響は組織の全員に帰ってくる。そしてその組織を立て直すには膨大なエネルギーがいる。
内面に争いのない誠実なリーダーを選ぶという視点を世界中の国民が持っていない世界では、欲の強い者がリーダーになりやすくなる。立候補制の場合、誰もがリーダーになる権利がある。これは誰もが努力しだいでリーダーになれる公平な仕組みではなく、強欲な者が候補者の中に混じってしまい、投票者は見分けることが難しくなってしまう仕組み。よって自我の強い者がリーダーになる可能性が出てくる。こういった自我の強い人物がリーダーになると、その自我は負けることを恐れるため自国の武装化を主張し、それが抑止力にもなると力説する。ところが他国にも自我の強いリーダーがいると、同じ恐れを持ち、軍備の増強を始める。こうして延々と平和な社会は訪れない。
立候補制でリーダーを選ぶと自我の強い者が出てくる。その中には人から尊敬されたいや、地位と名誉を求める欲深い者、小利口な者が出てくる。そしてその組織に属する人は、その組織が嫌いになる。一般的に愛想が良く世間の評判が良い人がいたとしても、毎日一緒に過ごしている身近な家族や仕事仲間は裏の性格を知っている。社会のリーダーを選ぶにはこの目線が必要で、推薦でリーダーを押し上げる方が平和な社会を築くには適している。
自らリーダーになろうとする者よりも、私生活の態度を知っている周囲に推薦される誠実なリーダーの方が、平和な社会を築くには適している。
日頃から無心になり意識として在ることに取り組んでいると、欲は限りなくなくなっていく。よって自ら手を上げてリーダーになろうとはしない。だから周囲が推薦する必要が出てくる。そういうリーダーは内面に争いがないので誰とも争わず、平和な社会を築ける。
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