幼少期にスポーツを習い始めたという子供でも、後に都道府県以上の代表に選ばれる才能の選手は、始めから動きや判断力がある程度洗練されていることがある。そして13歳くらいになると、大人と同じ動きをする。つまり直感とは洗練されているものであり、あとはそれを表現する身体技術が反復されて高まるほど、表現の質が高まる。直感は意識からやってくる。つまり洗練というのは意識そのものの現れ。そう考えると、例えば魚が群れをなす動きや、鳥の群れがV字になって飛ぶ動きも、エネルギーの節約という実用的な面と、美しいという両面がある。質が高く洗練された動きを、思考しない動物は直感的に行なっている。それを人間の思考から見ると調和や美しさだが、思考のない動植物からすると、ただ行っている。
調和や質の高い動きは起こるもの。それは直感に従う時。我欲からの思考では作り出せない。
相性の良い人と旅行に行くと、口で話さなくてもあそこに行きたい、このタイミングで、などが直感的に合うことがある。またバスケットボールやサッカーなど集団スポーツの試合を見ていると、素晴らしいゴールの前には、質の高いパスワークを見られることがある。それは複数人が連携して行われる。質の高いプレーは直感に従う時に現れる。そう考えると直感というのは瞬時に複数人にやってきて、集団行動を調和させる。これは個人個人が別の意識を持っているのではなく、意識そのものが一つで、つながっていることを示す現れの一つと言える。
絵を描くことが得意だと、次に描く線が見えるということがある。サッカーをする人の中には、パスコースやドリブルのコースが白い線で見えるという人もいる。白い線が見えなくても、シュートコースなどが見えるということもある。企画を仕事にする人の中には、モヤモヤとした雲のようなアイデアのかたまりがぼんやり見え、それを時間をかけて眺めているとアイデアとしてまとまってくる、という人もいる。こういう時は邪念がなく、無心の時に現れる現象。言い換えると心の目、心眼で見ている状態で、意識として在る状態。得意なことをしている時に見える現象で、直感の現れ。この見える線に従うと高いパフォーマンスが発揮される。
何かに興味を持っていたりすると、道を歩いていてもそれに関連する文字や広告などが浮かび上がって見えたり、そこだけ明るく見えたりすることがある。それは次につながるきっかけ。その時も心眼で見ている。
スポーツをしていると自分や他人の質の高い美しいプレーを見て、スローモーションのように時間が遅く流れる瞬間を経験することがある。そのプレーを見ている瞬間、無心になっている。無心で起こったプレーを無心で見ている。人間は質の高いものを見た瞬間、思考が止まることがある。
また衝撃的な出来事や事故を見た時や体験した時も、スローモーションで見えることがある。その一瞬思考が止まり、瞬間的に高い集中力でそれを観察している。これも無心になっている。
身体的能力が向上したり高い状態を維持できると、直感がやってきた時のパフォーマンスも高くなる。同じ人物が疲れてきて動きのスピードや質が低下してくると、今まで見えていた閃(ひらめ)きも浮かばなくなってくる。つまり直感はその人の状態や環境によって、閃いたり閃かなかったりする。
人によって直感が閃くスピードは異なる。スポーツなど素早い判断が必要な競技では、速く閃く方がその場の勝負を制する。遅い側に直感が閃くことは少なく、それ故に負ける。
速く閃く人の方が、大概は能力的に勝っている。
静かな音楽を聴く、散歩する、味づけの薄い料理を食べるなど、刺激の少ない行為は意識として在る状態を維持しやすい。反対に刺激的なことは過剰な感覚に心が奪われる。騒がしさや大きな音、情報量の多いもの、暑い寒い、辛い甘いなど。
子供がいて騒がしいというような生活にも、無心になれる瞬間は数多くある。
無心になるために人付き合いを避けるのは自我。1人になる時間は大切だが、人との会話の中で思考に注意する訓練もできる。森や山で修行する必要はなく、俗世間でも行える。
直感や閃きは、真面目に継続的に取り組んでいると恵まれやすくなる。ある期間それが連続してやってくる。反対に独善的になるとやってこなくなる。欲による思考が邪魔をして、直感の入る隙間がなくなる。
背筋を伸ばすと直感が冴える。
直感は質が高く調和する。それに従うと人間は最大能力が発揮される。取り組む事柄によって知能が必要だったり、そこまで必要なかったりと分かれるが、机に向かってする勉強は苦手でも、スポーツが得意な人は運動に関する直感に恵まれる。反対に運動は苦手でも、数学に関する直感に恵まれる人もいる。科学者になる人は知能の高さも必要だが、それだけではなく、その事柄に興味があって向いていなければ直感はあまりやってこない。
意識として在ることに取り組むと、新しい能力が開花することがある。
好奇心と直感、言葉上は違うものだが、「自分はこれに興味がある」と気づくという観点では好奇心も直感。つまり好奇心に従って進むというのは、意識が指し示す方向。それはその人にとって能力が発揮される道であったり、人生経験として必要なことであったりする。
好奇心は子供がかくれんぼするように純粋な興味。興味が出た瞬間、背後にお金が見えたり自己利益が見えると欲望だったということがある。
人間は貧困の危機に直面すると、好奇心に従うのが難しくなる。
好奇心に気づいても失敗への恐怖などで一歩踏み出せないのなら、それも「私」が傷つくことを恐れる思考。それは過去の苦い経験からくる恐れかもしないし、生まれ持った自我からくるものかもしれない。
天職・適職は趣味の領域で見つかることが多い。そのためには好奇心に従うことが良い。趣味はやらされるものではなく、お金を払ってでもしたいこと。
天職・適職に取り組んでいる人に、それをやめさせるのは難しい。周囲がやめろと言っても聞かない。それぐらい意思も強くなる。
天職・適職はその行為が自分に合っているため没頭できる。その時は無心になっていて直感にも恵まれる。だからそれをしていることが楽しい。直感に従っていることが楽しい。この楽しみ喜びは、獲得欲、所有欲、支配欲など自我が喜ぶ楽しみのことではない。
笑っている瞬間は無心になる。だから楽しい。
才能がある事は、その人が好きなこと。
好きなことをしている人にとって努力しているという言葉は適切ではない。楽しいから無心に夢中で取り組んでいるだけ。
好きなことをしている人にとって、人生はあっという間に過ぎる。嫌なことをしている人にとって人生は長い。
天職・適職に取り組むと使命感を感じることがある。すると苦難に立ち向かう強さも出てくる。
天職に取り組んでいても、芽が出ない期間がある。それがどれだけ長期間になっても、天職であればあきらめることがない。なぜならその瞬間に起こる直感的な衝動に従うため、それをすることに充実感や喜びを感じ、見返りを求めていない。よって失望することもやる気を失うこともない。反対に見返りを求める欲があると、芽が出なければどこかで打ちひしがれる。
楽しい勉強と楽しくない勉強がある。前者は好奇心に従って取り組んでいる時、後者はやりたくないことをやっている時。前者は自発的に学べ記憶にも残りやすいが、後者はその逆。
人は好きなことをしている自分が好きで、そういう時は積極性も出て、友達もできやすく、撮る写真の枚数も増える。
人間は得意分野になると頭の回転が速くなり、よく閃くようになる。反対に合ってないことをすると頭の回転も遅くなる。
シャワーを浴びる瞬間は無心になり、アイデアがひらめきやすい。
人と話している時に宅急便が届く、考えごとをしていて急にトイレに行きたくなるなど、そういう何気ないタイミングが物事のやめるタイミングであったり、瞬間的に無心になって違うアイデアが浮かぶ瞬間であったりする。
朝の寝起きは頭に雑音がないので、考える作業はその時間帯が適している。反対に夜は昼間の雑音で頭が疲れていて、集中力が低下する。
朝や昼寝でも起床後はアイデアが浮かびやすいので、寝る前に問題を考えておく。すると睡眠中に頭が整理されている。
直感によるひらめきやアイデアは夢のようにすぐ忘れる。その場ですぐメモするようにした方が良い。
無心でモノを作っていると、もうすることがないというタイミングが直感としてやってくる。それがその時の完成の瞬間。ただ翌日見ると、新たにすることが見えることもある。
思考は2つのことを同時に考えることはできない。その瞬間に最大限の能力を発揮しようとするなら、1つのことに集中する。
無心になって作業していても思考は使っている。ただ思考に過剰依存して創作すると古い物が生まれる。それは直感的ではなく過去の記憶で作るため。すると作っている途中で退屈になり、やめたくなる。
どんな人も今置かれている状況は、その人にとってするべきことや学ぶべきことが込められている。その時すでにそれを認識している人もいれば、後で気づく人もいる。全く気づかず似た状況を何回も繰り返す人もいる。自我への囚われが強いと不満が多くなり、現状を直視しない。囚われが薄くなるほど、その状況が自分に何を気づかせようとしているのかという視点で見るようになる。
人生の扉が閉まることがある。それは意識からもたらされた学びの期間。すると外部に発展していくことはなく、その扉を自分で開けることはできない。その時にできることはそれが自然に開くまで待つことと、開いた時のために準備しておくこと。準備ができた時、扉は開く。
新たな環境での第一印象が「とんでもない場所に来た。ここは自分のいるところではない」という時、そしてすぐにその状況から抜け出せる状態ではない時、その後、精神面などで大きな成長につながる期間になることがある。
上手くできずに途中で辞めることを逃げと考えてしまう人は、成功か失敗かの思考に囚われている。だから新しいことに挑戦する時に、一歩踏み出しにくくなる。自我は自信喪失や自分のプライドが傷つくことを恐れる。そういう時は、それが自分に合っているかどうか一度実験的に試してみる。そうすれば、それが合わなくても実験結果が出たのだから途中で辞めやすくなる。いつか合ったものが見つかれば辞める方が難しくなり、能力は自然と発揮される。
好奇心に従う時、直感、衝動、やる気が自然と内側からやってくる。直感に従っていると自然に継続できる。また反対に、飽きたという直感もある。
人が持つ善悪の基準は、過去の記憶や文化的背景などで異なる。人を助けること一つを見ても、ありがた迷惑ということもある。無心になり自然と起こる行為に、本質的な善意がある。
誰かを好きになり相手のことを思って行動する時、それを愛や愛情と呼ぶことがある。それが少しでも見返りを求めるものであれば、見返りがなかった時に落胆や失望が待っている。それは愛情に見せかけた我欲であったり、愛情の中に我欲が混ざっていたり。反対に見返りがなくても与え続けられるのが純粋な愛情。例えば親が子を育てるような。無欲の行動は愛情そのもので、裏切られても怒りはない。反対に自我は損得を考える思考でもある。つまり愛情や愛とは意識からやってくる直感的行動で、意識そのもの。意識でできているこの世界も愛情でできている。
人間は人生経験を通じて、初心者から熟練者へ、未熟から成熟へ、粗野から洗練へ、暴力から非暴力へ、混乱から調和へ、争いから平和へ、思考から無心へ、自我から意識へ、と成長していく。成長も意識の性質。
○自我
「私」である自我は思考であり心。自我は無心にはなれない。
思考に振り回されないためには、自我について知ることが必要。
思考には2種類ある。一つは無意識に突発的に浮かぶ思考。もう一つは計画など意図的にする思考。前者は過去の記憶や未来への予測から来る不安、怒り、後悔、劣等感、欲望などで、すぐに消える思考もあれば、脳内を強く占拠してとどまる思考もある。後者は必要な時に用いる。
思考の大部分は、過去の記憶が再上映されるもの。
人間として生まれてくるということは、誰もが自我を持っている。無意識の思考は過去の記憶が引き金となる。思考の後には言動があり、これらが個性や性格となる。失敗ばかりが多い過去だと劣等感が強くなり、自信もなく積極性が失われ、成功が多いと前向きで積極的な考えになるなど。こういう理由で人間は同じ行動を繰り返し、同じ問題も起こす。
「私」という自我は過去の記憶→無意識で突発的な思考→感情→言動→性格→人生経験→過去の記憶、と繰り返す。この人生の繰り返しが終わるのが、無心となり意識として在ることが習慣化された時。
「あなたは誰ですか」と尋ねれば、私の名前は◯◯◯◯で、日本人の女性です、仕事は営業をしています、大卒です、忍耐力があります、怒りっぽいです、よく笑います、足は遅いです、昔はテニスをしてました、趣味は登山です、などの答えが返ってくる。これらは「私」の過去の記憶や経験を述べたもので、自我を説明している。これは本当の自分ではなく思考であり、人間の根源的姿である意識のことではない。
自我とは、思考であり、心のことであり、欲望で、私という主張が強く、自分優先で、陰湿で、ドロっとして、粘り気があり、しつこくて、恨みがましく、嫌悪し、独裁的で、自己中心的で、醜(みにく)くて、下品で、厚かましく、頑固で、ずるく、恥知らずで、嘘つきで、無責任で、逃げ隠れし、足るを知らず、強欲で、傲慢で、人から奪い取り、損得勘定で、分け合わず、不公平で、不誠実で、うぬぼれ屋で、優越感を持ち、被害妄想が強く、依存症で、期待し、失望し、暗くて、不幸で、苦しみで、黒くて、疑い深く、凶悪で、残虐で、攻撃的で、威圧的で、脅迫し、押し付け、暴力的で、荒々しくて、意地悪で、いじめ体質で、浮き沈みが激しくて、うるさくて、落ち着きがなく、退屈が嫌いで、不安定で、散らかっていて、汚くて、混乱していて、無秩序で、排他的で、拒絶し、二極化で、派閥主義で、差別的で、束縛し、器が小さく、劣等感が強く、人見知りで、卑屈で、見栄っ張りで、プライドが高く、負けず嫌いで、目立ちたがりで、恥ずかしがり屋で、承認欲求が強く、自分を大きく見せ、恐れていて、弱くて、みじめで、寂しくて、悲しみで、絶望で、挫折で、愛情がなく、快楽主義で、中毒症で、繊細で、傷つきやすく、あらゆる負の側面を含む。
人間は意識という愛情を根底に持っていながら、自我の雲がその表面を覆い尽くしている。自我の雲が薄くなるにつれ、人は愛情ある言動が多くなる。
自我への囚われが強い人ほど、性格が悪くなる。囚われが薄い人ほど、性格が良くなる。
意識と自我について無知であると、問題と苦しみが生まれ続ける。
自分がいつも無意識に起こる思考に苦しんでいると気づくことで、自我から距離をとることができる。
自我への囚われが強いほど、人生の苦しみが強く多くなる。
自我に囚われると愚かな行為が増える。人が愚かに見える時は、自分のことだけ考えて行動している時。勉強ができる人でも愚かということがあり、勉強ができなくても清く正しいという人もいる。
欲望で行動する人は最終的に自滅する。
欲によって築き、欲によって潰す。
プライドが高いと、その鼻をへし折られる時がやって来る。プライドも「私」という自我。人生はいつかどこかで恥をかくようになっている。
欲が強い人ほど大きな痛みを経験して悪い習慣に気づく。欲が少ない人は小さな痛みで気づく。
人は自我があるため苦労を感じる。ただ苦労は奥深い人間性へと成長させるきっかけ。
自我があると深い悲しみを経験するが、それは他者への思いやりを育む。
自我があると挫折も絶望もする。人は絶望すると死の扉が目の前に見え、死ぬか耐えるかの選択に毎日迫られる。
絶望した時に見える景色がある。延々と続く灰色の雲、崖の淵に立つ自分、毒の沼に浸かっている自分、一人だけ深い穴に転げ落ちていく様子など。その時は一生治らないのではないかとも感じる。
絶望した時、そのことを話せる友人は少ない。絶望は絶望を経験した人としか共感し合えない。人は本当に苦しくなると人に話さない。
物事がうまく行っている時は自信もつき、やればできるという気分になる。誰かにするアドバイスも前向きになる。ただその波に乗れなくなった時、自我はいとも簡単に自信を失う。自信に依存した行動はもろい。自信のあるなしに囚われない平常心は、無心からやってくる。
人生で起こる出来事は、良いも悪いもなく中性のもの。それに意味をつけるのが思考で、過去の記憶が決める。
自我は敵や味方を分けるが、意識にそういった区別はない。
意識として在る時、思考はないので前向きも後ろ向きもない。前向きに見える行動も、裏には恐れや不安が隠れていることがある。意識として行動する時、恐れや不安はない。
自我は体より外側ばかりを見ているため、他人の言動はよく見ている。しかし自分の内面のことは見ていない。だから失敗しても他人のせいだと考える。よって学びと成長がない。無心になるとは内面を見ていること。自我への囚われが薄い人ほど、自分に原因があるのではないかと考える。つまり自分をよく見て反省し、学び、成長する。
抵抗は自我の反応の一つ。
人の性格を変えようとすると相手はそれを察する。すると相手の自我が負けまいと抵抗して頑固になる。
自我に囚われていると自分中心になり、誰かに迷惑をかけて注意されても自分が被害者と考え、非を認めない。よって相手の自我と戦っても意味がなく、ひたすら逃げるのが相手の自我。
自我は負けず嫌いで、なんとしてでも負けを認めず勝とうとする。
誰が見ても残虐でひどいとされることを自我は行う。そして自我の強い者はそれを正当化する。
自我にとって正義はどうでもよい。自分が勝ち、得すれば良い。
自我の強い者は自己主張が強く、話し合っても話にならない。自分が被害者である、相手が悪いという視点で話をするため、公平で客観的な視点を欠いている。
意識は直感や出来事を通じて人間や世界に働きかける。その働きは調和。その意識の中で、そんな働きがあることを知らずに、小さな範囲で獲得を求めるのが自我による欲望。その小さな欲望が、それをも含む無限に広がる意識に対抗しても、勝ることはできない。
人間の器が大きいというのはどれだけ自我に囚われず無心となり、他者への愛情を持っているか。器が小さいとは、他者を排除し「私」を優先する自我の強さ。
人から意見されて腹が立つのは、傷つけられた、自分を守りたいという自我の防衛本能。時にそれは器が小さいと言われる。感情的になる時は自分の自我に気づけ、自分が何にこだわっているのか見えやすい。意識として在る時は、批判されても気にせず反応しない。
「私」が傷つくこと、それは自我が恐れること。
自我に囚われていると、人の忠告を受け入れることは負けだと考える。自我が薄まると、忠告はありがたいと考えるようになる。
スポーツなど勝ち負けの世界で10代を育つと、大人になっても勝ち負けで人と接するクセが残る。ちょっとした話でも相手より勝ろうとする。それは付き合いにくくわずらわしい。そして本人はそのクセに気づいていない。
自我はいつも誰か攻撃する対象を作る。そして自分は相手よりマシだという優越感にひたり、相手が失脚するのを期待している。職場でも学校でも。
自我は自分より大きなモノやたくさんのモノを目にすると、劣等感を感じる。逆に自分より小さいモノや少ないモノを目にすると優越感を感じる。
自我を理解し心を静かにしていると、他人の自我もよく見えてくる。
自我を知るほど、他者の言動の理由も見えてくる。
自我への囚われが強い者同士、囚われが薄い者同士、意識としてある者同志など、それぞれの言動パターンは似てくる。自我への囚われ度が近い者同士の付き合いが、それぞれ心地よいものとなり、友人などとして集まってくる。ただ自我が強いと争いが増え、自我が薄いと争いは少ない。
自我が強いと不誠実になる。不誠実な人はどんな綺麗な言葉を発しても、やがて自分の言動で本心がばれてしまう。言っていることとやっていることが食い違う。
自我は普通の出来事であっても、少し大きく脚色して相手に伝える。
思考はいつも物事の優劣、上下、善悪を判断する。子供はその傾向が薄いが、大人になるにつれて強くなる。
自我は接する人によって態度を変える。自我が強いほど人間関係を上下で見る傾向が強い。目上には媚びて声のトーンも高くなり、目下には威張り声も低くなる。そのタイプ同士は居心地が良いので、よく似たタイプが集まってくる。このタイプがリーダーになると、周囲もそういうタイプが集まってくる。そして組織の風土もそうなる。
自我が強い人が親分になると、親分は子分に威圧的に接し、子分は親分に意見できず従順に従う。その子分も下の子分には威圧的に接し、下の子分は上の子分に意見できず従順に従う。この繰り返し。幸せと苦しみが表裏一体なように、サディズムとマゾヒズムも表裏一体で自我の性質。
下の子分の自我は上の子分に怒られたくないため、萎縮して自分の意見が言えない。それを見た上の子分はいらだち、下の子分を非難して改善を求める。ところが上の子分の自我も親分に怒られるのが嫌で、自分の意見がはっきり言えない。それを見た下の子分は「お前も俺と同じじゃないか」と思う。自我はいつも自分の内面より外側を見ているため、自己矛盾に気づきづらい。これも人間社会の組織で起こっている。
自我は相手の権威や実力など、大きく強そうに見えるものに弱い。自分が勝てない相手には萎縮し、イエスマンになる。反対に自我は優しいだけのリーダーを扱いやすいと感じ、下に見る傾向がある。自我が強い人と付き合っていくために、リーダーは誠実だけではなく実力がいる。
盲目的にリーダーの言うことを聞いたりリーダーに恐怖を感じるスタッフは、リーダーが誰かを雑に扱うと同じ態度をとりがちになる。反対にリーダーが誰かに尊敬を持って接すると、それも従う傾向にある。これは自信のなさ、恐れ、自己保身など自我から来る従順な行動。自我への囚われが薄い人は、リーダーが誰にどんな扱いをしようとも誰にでも愛情を持って接する。その人は恐れに囚われていないため。
弱々しい態度や自己主張できないことは、自我が薄いということではない。それらの裏には自信のなさや、嫌われたくないという自己保身、頑固さなどが隠れている。無心であると、これらに囚われない普通の態度となる。
自我は成功した人が手の届く範囲にいると妬み、手の届かない範囲にいると崇める。
自我は目の前で誰かが得しそうにしてると邪魔したくなる。
大小の成功をすると、必ずどこかで誰かに妬まれる。もっと欲しいという自我を克服できていない社会では、誰もが不足感を感じている。よって好きなことをしていない人やうまくいっていない人にとっては、好きなことをしている人の話はまぶしく自慢話に聞こえることがある。
自我は損得を考えるため相手の前では笑顔で話し、その人がいなくなったら悪態をつく。こういうことを知らなければ人間不信になることもあるが、自我はこういう付き合いが普通なので気にしない方がよい。
人間が争うのは自我があるため。
人間嫌いの人は相手そのものではなく、相手の「私」という自我の言動を嫌っている。だから子供や動物は好きだったりする。思考力が発達していないものは邪気がない。思考力が発達していても自我が薄い人もいる。
人見知りも自我。相手と何を喋っていいかわからない、相手にどう思われるか気になる、などはすべて思考。無心になるとそういう考えは浮かばず、積極的に話しかけることも消極的になることもなく、普通に話したり黙っていたりする。
会話が止まった時の沈黙に耐えられないというのは不安であり思考。無心になると気にする思考がない。
劣等感が強いとその反動で大きく見せたい、偉くなりたい、そう思われたいという動機から、何かを作り出す力が生まれることがある。事業を始めたり、権力や肩書きを求めたり、派手になるなど。
劣等感や妬みが強い人は普段の会話で相手に恥をかかせたり、気にしていることをあえて指摘することがある。すると自分が優位に立ったように感じる。その場は勝ったように錯覚しているが、長い目で見ると嫌われる。性格が悪ければ良好な人間関係も維持しづらく、どこへ行っても同じような人間関係が生まれる。
自我は自分自身に気になる部分があると、接した相手にも同じ場所を見る。自分と比較し、その優劣で自分を安心させたり、不安になったり、優越感にもひたる。体、持ち物、能力などで。自我は不完全な「私」に不安を感じる。無心には不完全な「私」というものがないので不安がない。
相手の劣等感や妬みなどの自我を指摘すると、相手が気づいて改善されることもあるが、逆恨みされることもある。それは関係性と状況による。
自我が強いと恨みや怒りが多い。特に自分が損させられたときは。
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