8-1章 自我から意識へ / 持続可能な社会プラウトヴィレッジ 第二版

 

○自我と意識の性質を知る

 自我と意識の性質を知るということは、自分の言動、他人の言動の理由を理解することになり、人間を知ることになる。それにより平和の築き方や直感について理解でき、またどういったリーダーを選ぶべきなのかも理解することができる。プラウトヴィレッジでは誠実なリーダーが必要だが、それも自我と意識の関係性から理解できる。ここでは自我と意識の性質についてまとめている。


○意識

 意識とは静寂であり、調和であり、洗練であり、美しさであり、愛情であり、優しさであり、心地よさであり、喜びであり、楽しさであり、平和であり、純粋であり、無邪気であり、無心であり、直感であり、ひらめきであり、好奇心であり、洞察であり、気づきであり、智恵であり、成長であり、普遍であり、本質であり、永遠であり、全能であり、すべてであり、すべてを知り、すべてを受け入れ、すべてを包み込み、器が大きく、自由で、囚(とら)われがなく、自我も含み、善悪であり、善悪もなく、光と闇であり、光と闇でなく、男性でも女性でもなく、しかし男女両方を含み、区別もなく、始まりも終わりもなく、時間もなく、色も形も匂いもなく、しかしこれらも含み、宇宙が誕生する前からあり、人間の意識のことであり、唯一であり、命であり、魂であり、宇宙や物質や自我という一時的なものをも含み、存在するしないを含み、何もないがすべてを含む。


 砂糖の甘さを言葉の説明では伝えきれないのと同じで、言葉で意識を完全に説明することはできない。ただ意識として在ること。


 意識として在るために、次のことを行ってみる。目をつぶってゆっくり鼻から息を吸い、口から吐く。この呼吸に意識を向けてみる。呼吸に意識を向けていると、思考を意図的に止めることができ、その間は無心になる。その時、頭の中には意識だけが残るので、その意識を意識する。意識に気づくとも言う。その時、思考はないので欲望も苦しみもなく、「私」という自我もない。自我とは思考のこと。こうして常に意識に気づき、意識として在る。


 呼吸に意識を向けるだけでなく、運動や芸術でも1つの取り組みに集中していると無心になる。睡眠と同じように無心になる行為を人は心地よく感じ、喜ぶ。意識とは心地よさや喜びのことでもある。ここでいう喜びとは、最高に幸せという一時的で極端な感情のことではない。


 子供のように無心になって遊ぶことは楽しい。それは思考がない状態。意識とは楽しみでもある。


 人間が純粋に創造を行うとき、その前に直感がある。その直感は無心の意識のみの時やってくる。つまり無から有が生じる。有は無があるから存在する。宇宙の創造も、無である意識がビッグバンによって、有である宇宙を造り出した。つまり宇宙の以前には意識のみが存在した。


 巨大な宇宙も意識という何もない入れ物の中に生み出された世界。よって人間は個別に意識を持っているのではなく、全ては意識の中で生き、意識によって繋がった存在。人間がその意識を認識できるようになったのは、脳が発達し、思考できるようになったため。


 宇宙が誕生する以前にあったこの意識は、人間や生命が持つ意識のことでもある。生命だけではなく石や水、空気、あらゆる物質は意識の現れ。この意識はすべてつながった唯一のもの。


「私」という自我は意識内に現れる思考で、一時的なもの。意識のみがこの世にあり、それがすべての生命の根源的な姿。心も体も自我も思考も一時的なもので、永遠ではない。


 意識が本質で、それ以外は幻想。


 高い所から落ちる夢、誰かに追いかけられている夢など、夢を見ている時、人間はそれが現実だと思って見ている。この現実世界も同様に、人間はこれが現実だと思って生きている。しかし意識からすると、それもまた夢。つまり「私」という自我は本質的ではない。


 生まれたての赤ん坊は、脳が充分に発達していないので思考力がない。だから常に無心の状態にある。そこから成長していく中で、脳も発達し思考力が高まっていく。それとともに「私」という自我が芽生え、「私」の損得を考えて動き、意識は意識として在る状態から離れていく。そして喜びや苦しみという人生経験を何度も経て、再び意識として在る状態へ戻っていく。意識が意識と離れた自我から意識を体験する。これが人間や宇宙を通して行われている。


 無心になり意識として在ることを続けていると、突発的に思考が起こる。この思考は過去の記憶から来る。それは欲望や怒り、将来への不安であったりする。この思考は感情を生み出し、その感情は次の思考を生み出し、また次の感情へと続いていく。負の思考は負の感情を生み出す。これに気づいて意図的に無心になり、この連鎖を止める。


 負の思考は負の感情を生み、それがストレスとなり、病気という形で体や心に症状が現れる。生まれつき性格が前向きな人や後ろ向きな人がいるが、どちらも突発的に思考が起こる。よって意識として在り、囚われのない状態を維持する。


 意識に意識的でなかった場合、突発的に起こる思考に無意識になり、それに振り回される。楽しい思い出もつらい思い出も、場合によっては記憶の深いところに刻まれ、本人に影響を与える。本人は思考に振り回されていることに気づいていない。そしてそこからくる言動は性格となる。例えば、楽しい思い出が多い人は前向きな言動が多くなり、暗い思い出が多い人は考え方が後ろ向きになるなど。つまり突発的な思考に無意識ということは、本人も忘れているような過去の記憶が日々の言動に影響を与えているということ。そして性格の良い人や悪い人、欲の強い人や弱い人、積極的な人や消極的な人などにつながる。


 人間は誰もが何かに苦しんでいる。仕事があってもなくても、お金があってもなくても、有名であってもなくても、友達がいてもいなくても、何かに苦しんでいる。それは「私」という自我があるため。無心となり思考がないとき、「私」がないので苦しみは消える。いつもこれを意識していると、無心が習慣化されていく。意識的でない時、思考が感情と言動を支配する。この内面での無心か思考かの2つの分かれ道が、人生を穏やかか苦しみのあるものにするかどうかを分ける。


 人種、性別、宗教、能力、地位、資産などが人間の優劣を示すのではない。これらは「私」という自我の視点から見た、大きい小さい、多い少ない、優れている劣っている、有名無名という表面的な尺度。一方、意識として在るは、その人がどれだけ自我に振り回されず無心としてとどまれているかという段階があるだけで、優劣はない。社会的には立派な肩書きがあったとしても自我に振り回されている人もいたり、物をまったく持っていないが無心として在り続けている人もいる。


 1日の中でどれだけ意識的に無心になれたかが、その進度を表す。


 物を得ることも、どこかに旅することも、能力が高いことも、評価が高くなることも、どれも一時的な喜びと苦しみを生み出し、無意識な人生はこれを繰り返す。これに気づいたなら無心に取り組みやすくなる。


 全ての人間は最終的に意識として在る状態に行き着く。それまでは得たり失ったり、喜んだり悲しんだりを繰り返す。これらは悪いわけではない。良い悪いを区別するのも思考。無心はそれに囚われない。


 そういった意味で人生の出来事に良いも悪いもなく、得も損もなく中性。その出来事から学べば次の段階へ進み、学べなければ同じような出来事を繰り返す。

 気づきの度合いが深まるほど無心の時間が増え、意識として在ることが増える。気づきの度合いによって、人生で起こること、その時の判断が変わってくる。気づきの度合いが深まるほど、欲望や怒りから遠ざかっていく。人生で起こるすべての出来事は、気づきを深めるための経験でもある。


 無心が習慣化されてくると突発的な思考に気づきやすくなり、自然と無心に戻ろうとするようになる。


 マラソンでは早くゴールする人もいれば、遅くても走り切ることを目的にする人もいる。その誰もが最後は同じゴールにたどり着く。人間も同じで、誰もが最終的に同じ根源の意識へたどり着く。どんなに遅く走る人であっても。


 自我は「私」が失われることや傷つくことを恐れる。だから死を恐れる。意識として在ると死を恐れる思考がなく、死という概念すらもない。また早すぎる死は悪く、長生きすることが良いという考えもない。自我は生死に執着する。無心としてある時、誕生もなければ死という考えもない。つまり意識に誕生も死もない。今までずっとそこにあり続けている意識、それが人間の根源的な姿。


 人間はそもそも意識なので、無心になって新たに意識になるのでも得るのでもない。ただずっとそこにあったそれについて知らず、無知ということ。そのかわり自我という思考が前面に出て、人間はその思考を「私」だと思い込んでいる。


 若い時、どれだけ粗野で暴力的な者でも、年齢とともに丸く穏やかになるということがある。そう考えると人間は全体として悪から善、騒がしさから落ち着きへ、粗野から洗練と向かっている。これは誰もが自我を認識して思考に振り回されなくなり、意識として在る状態へと行き着くということ。つまり自我から意識へという方向。それがこの人生で起こるのか、それとも後の人生で起こるのかの違い。


 人生で起こる出来事や経験はすべて、根源である意識に戻って行く道。


 無心に取り組むために、苦行や断食は必要ない。


 意識として在るとは完璧になることではない。


 意識としてあると思考がないので、自分が完全であることも不完全であることも気にすることがない。


 思考を止めることが目的ではない。思考が起こっても、それを客観的に眺めていれば消えていく。思考に無意識に流されないこと。


 思考が止まらなくても気にしない。止める努力も一つの執着で苦しみ。思考が起こればただ気づき、無心になる。


 意識として在ることに取り組んでも、瞬間的に怒りや恐れを抱くことがある。ただその思考や感情が一時的であることにすぐ気づき、囚われず、それが消えていくのを静かに眺める。


 人間は幸せを求めるが、言葉上の幸せには2種類ある。1つは、一時的に盛り上がる嬉しい楽しいという感情。もう1つは心を乱す思考がない穏やかさ。体より外側に幸せを求める時、物や名声など何かを得る喜びは一時的で終わる。体より内側の意識に気づく時、無心になるので穏やかさという幸せに出会う。


 無心になるとは、最高に幸せな感情になるということではない。囚われがなく穏やかで普通な状態。


 自分にとって最高の何かを手にした時、大きな喜びに包まれる。それを失った時、失望も大きくなる。一時的な喜びと苦しみは表裏一体。


 意識として在るということを知り、それを実践していたとする。それでも日常生活の中で何かに執着心を感じているなら、記憶から来る思い込みが顔を出した瞬間だと気づける。気づくことで、その思いグセに振り回されなくなってくる。


 自我は成績など数字にも執着する。


 物質的なものに価値を感じていると、失敗は損で、成功は得に感じる。経験に価値を感じているなら、成功も失敗もどちらも有意義な体験。意識として在るなら、失敗も成功もなく、ただ出来事が起こっている。


 無心になると何かを得たいという欲望も消える。


 性欲が起こっても無心になると消えていく。


 所有するものが多くても少なくても、それへの執着がなければ心は軽い。


 無欲に勝る心の軽さはない。


 無欲に勝る強さはない。


 無心になると、意味を考えることもなくなる。すると人生の意味というものはなくなる。人生の意味を考えるのは思考であり自我。


 人生に意味はなく、しなければならないこともない。


 思考がない状態に探求はない。それは人生の探求の終わり。生と死の終わり。人間の終わり。


 人生に良いも悪いもない。それを決めるのは思考。思考は過去の記憶や固定観念からやってくる。


 自我ではなく意識として生きる。


 無欲になっても新たな人との出会いはあり、何かを作り出したりと行動も起こる。それは直感として起こる。


 無心を維持すると心や言動が穏やかになり、性格も落ち着いてくる。すると日常の問題が減ってくる。


 落ち着いた人がいると、周りも落ち着いてくる。落ち着いた人と話すと、怒ってる人も落ち着いてくる。落ち着きは物事を解決へと向かわせる。怒ってる人に怒り返すとお互い怒りが増大し、決裂へと向かう。落ち着きには不安や焦り、怒りという思考がなく、それは意識として在る状態。つまり調和する意識が主で、自我がそれに連なるもの。


 意識として在る時に思考はなく、区別するということもない。よって性別、問題、争い、分離、葛藤はない。また理解するということもない。何かが起こっても、ただそれが起こっているだけ。それは無関心という意味ではなく、見ている状態。


 無心であることが世界の平和につながる。自我に振り回されると争いが生まれる。無心が平和で、自我が争い。


 無心の時間が増えてくると、勝ち負けという競争に興味がなくなってくる。勝って優越感、負けて悔しさ惨めさを感じるのは自我。


 意識として在るというのは、思考がなく素直で純粋な状態。つまり邪気がなく無邪気。だから子供は愛らしく、言動も好まれる。大人でもそういう人はいる。


 知能指数の高い人は科学技術を発展させる。ユーモアのある人は楽しい雰囲気を作り出す。芸術センスのある人は新しい表現を作り出す。意識として在る人は平和な世界を作り出す。


 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感以外の感知能力である第六感とは心眼のことであり、無心で意識として在る状態。だから直感的にものごとの本質に気づくことができる。意識とは洞察力のこと。


 何をしていても発想や成長するには、見て分析して取り入れることが必要になる。その際に新しい要素に気づくには洞察力がいる。それは頭の中に浮かぶひらめきに気づくこと。洞察力は無心の時に浮かぶ直感。反対に固定観念という思考が強かったり多かったりすると、それが障害物となって直感が入る隙間を消す。


 目から入ってくる情報は中性。目の前で事故が起こっていても、ただ出来事が起こっている。この情報を思考で判断しだすと、良い悪い、嬉しい悲しいが出てくる。この情報を無心で見ると、その入ってくる情報に対して意識は直感という形で応じ、言動が起こる。時には無反応や沈黙という時もある。


 お手玉で落ちてくるボールを手でキャッチする時、目をつぶってでは難しい。普通は視野の中心でボールを見てキャッチする。この中心視野の周りには、景色がぼやけて見える周辺視野がある。お手玉くらいの距離感であれば、周辺視野でボールを見てもキャッチすることができる。サッカーをしても周辺視野に入ってきた相手選手に気づいて、その裏をつくプレーが直感的に浮かんだりする。つまり周辺視野の情報は、物事を判断する上で大きな部分を占めている。無心であれば、意識は中心視野と周辺視野の両方から情報を得て、直感で応じる。


 反復すると考えなくても体が動くようになる。するとその技術は直感によって自然に使われる。体が覚えていない技術は思考しながら行うため遅く、直感的にならない。直感は瞬時に表現されるため、思考がなく速い。


 足の指をどこかにぶつけて痛い思いをすることがある。これは痛いという思考で苦しんでいる状態。こういう時も無心になり、痛みを客観視する。無心になっても体の痛みは消えないが、心で感じる痛み苦しみは消え、必要以上に苦しまない。体の感覚に苦しんだり楽しんだりするのも思考であり自我。


 同じ人と何年も過ごしていると色々な性格が見えてくるが、初対面の時に感じた相手の第一印象は、何年経っても変わらないということがある。初めての出会いは相手に対して先入観がないので、思考に邪魔されず、目から入ってきた情報を無心で見ることができる。その時、意識である洞察力によって相手のありのままに気づく。だから第一印象というのは、記憶に邪魔される前のその人の素の性格が見えている。


 性格がとても良い人は、誰が見ても一瞬ですぐにわかる。ちょっとした仕草でも性格の良さを感じさせる。性格が良いか悪いか迷うということは、そこまでではないということ。


 意識として在ることが当たり前になるほど、日々の言動に優しさや思いやり、調和といったものが自然なものとなってくる。


 全体の善を考えて日々行動している人は、誰からも信頼される。全体の善を考えるのは愛情でもある意識の性質。


 自分の周囲の状況は自分の心の反映となっている。自分を優先する人は周りに敵が増え、生きづらくなる。全体の善を思い行動する人は、周りも友好的になり平和になる。


 無心を維持し内面が平和な人は、誰かの陰口や噂話も言わず、批判や攻撃されても仕返しせず、黙って耐える。もしくは気にせず、それが過ぎていくのを見守っている。


 内面が平和になると、その人と接する人々も安心して平和になる。内面の平和は、欲望や分離を生み出す思考から自由になっている状態。


 意識としてあるとき自由があり、心としてあるとき束縛される。


「この人は苦手だ」と思っていると、雰囲気で相手に伝わっている。誰かへの苦手意識や敵意も過去の記憶からくる思考。その思考は次の言動となって現れる。好きになる必要はないが、無心になって相手に嫌な気分を感じさせないことが、人間関係を悪化させない鍵。


 生活する中で、頭で考えて打開できない状況に陥った時は前向きにあきらめて脱力し、無心になって成り行きに任せる。すると邪魔していた思考が消え、直感が入り込む隙間ができ、解決案や進むべき道が見えてくる。


 意識に任せ直感に従うと、目の前の難しい問題が完全に解決できなくても、それが布石となり別のタイミングで改善されることもある。


 故意に何かをして動くより、成り行きに任せて生きると物事のタイミングが合いだし、スムーズに事が流れるということを体験する。それに慣れてくると困った時も慌てなくなる。


 無心が習慣化されてくると、苦難に出会っても苦難と思わなくなる。


 様々な出来事が起こって複雑になり、感情に圧倒されそうになれば、何もせず静かにする。やがて次の一歩が自然と見えてくる。


 するかしないか迷った時や判断に迫られた時は、いったん立ち止まって無心になる。進むのが自然に感じるなら進む、退くのが自然なら退く。進むべき直感の時は迷わず進む決心ができ、進まない判断ができた場合はそこまでの衝動ではなかったということ。ただいったんしないと決めても、やはりその衝動は抑えられず結局するということもある。


 直感の他にも感情的判断、思いグセ、欲望、勘などで行動やアイデアが起こることがある。その瞬間はそれが直感だと思えたりもするが、少し時間が経って冷静になると、そうではなかったと思えることもある。この時も同じく行動する前にいったん立ち止まって無心になる。迷えば直感的ではない。そして進むのが自然に感じるなら進む。退くのが自然なら退く。期待、怒り、同情など感情的な時は無心ではなく、それで判断すると間違っているということがある。何が直感で、何が直感でないかを自分の中で理解するには、よく似た状況を何回も経験して、あの判断は直感によるものだったや、あれは直感以外によるものだったという自己分析を積み重ねる。すると何が直感的かが理解しやすくなる。


 直感と勘違いは紙一重。


 意識として在り、純粋な衝動に従って成り行き任せに人生を進んでいくと、理由はわからないが何か物を作り始めたり、新しいことを始めたりすることがある。何回かそういう経験をすると、人生の大きな流れがうっすら見えてきて、次への準備が起きていると思えることがある。こうして無心になると、自ずと進むべき道が見えてくる。これが普通になってくると、欲望による行動ではなく、人生は直感に従った一本道ということを実感する。こうして意識は直感を通じて人間を使い、人間は自我を超えて意識として生きる。


 心を静かにして人生を観察していると、どんな些細なことも人生で起こることはすべて起こるべくして起こっていると思えてくる。そう思わない段階では偶然に思える。


 無心の時、理解するという感覚はない。思考する時、理解できたと理解できないがある。思考で考えると二極化する。良い悪い、あるなし、好き嫌いなど。意識のなかに物質化した宇宙が広がる。意識は物質ではないが、物質である宇宙をも含む。意識として在る時に良い悪いはないが、その両方をも含んでいる。この観点で見ると、意識として在る時は人生に意味や目的はないが、意味や目的があるも含む。意味や目的を持つのが思考。思考では、自我に振り回された人間が意識という根源へ帰っていくことが目的だと理解でき、意識からすると帰っていくことが理由もなくただ起こる。


 人が意識として在ることへ取り組むきっかけの一つに、自然とその探究心が起こるということがある。他には、突然衝撃的な出来事が起こるということがある。それは絶望であったり、何か大事なものを失うなどの苦しみであったりもする。もし人生で予期せぬ巨大な苦しみに直面しても、それは根源的な意識に気づくきっかけだったと後に理解できる。病気は身体が発する危険信号で、生活などを見直す機会になる。人生の苦しみも同様に、その原因である思考も一時的で、本来の姿の意識に気づかせるきっかけとなる。


 長期間苦しむ経験をすると、苦しむのが嫌になる瞬間が訪れる。その時、無心について知ると後戻りしなくなる。


 最悪な出来事による苦しみは、無心ということに出会う最高の出来事になる。


 意識として在り、無心について真剣に取り組んでいると、体に異変が起こることがある。例えば動悸や失神、原因不明の体調不良など。病院で診てもらっても、原因がわからないということがある。この時、不安な気持ちになるが、その感情に振り回されず冷静に観察し、無心を維持する。その期間は人それぞれ。この継続が無心をより当たり前の状態にする。これは習慣化される一つ前の段階。体への不安は、この一時的な体が自分であるという自我の誤った認識と執着から来る。それに気づく。


 継続の結果、無心が習慣化されてくると、その状況に適した言動が自然と起こる。意識がその人を動かす。もしくは意識がその人を通じて動く。つまり自我による欲望からではなく、その状況に調和した言動が直感的に起こる。また意識が動かすとは、全体の善について取り組むことでもある。


 意識として在ることは、本質であり直感であり洞察でもある。だから無心でいると色々なことに気づく。その中には世の中の法則への気づきなど。時代とともに移り変わる流行ではなく、世の中の変わらぬ法則に気づきやすくなる。それは本人を賢くする。意識として在る時間が長いほど囚われと固定観念が薄まっていき、物事を深くみる洞察力が働き、智慧も身に付く。反対に暇つぶしにテレビや携帯電話を見る時間が長くなると、意識として在る状態から離れ、思慮深さや賢さからは遠のく。


 世の中の表面上の流行りは変化し続けるが、根源的な意識は永遠と変わらない。


 意識だけが唯一のもので、この物質的宇宙も死後の世界も本質的ではなく一時的な夢。これは自我にとって大事なもの。


 思考がない意識は男性でも女性でもなく、その両方をも含む。


 意識があえて自我という意識から分離した状態を経験し、再び意識を意識してそこへ帰っていく。そう考えると紀元前600万年頃にチンパンジーから分岐した人間の進化も必然と思えてくる。チンパンジーに人間のような思考力や理解力はないが、人間は分岐後、脳が大きくなり、思考力も高まり、当初はまだ比較的薄かった自我もやがて強くなる。悪巧みを考える思考力も高まったが、愛情などの感情も理解できるようになった。地球上の生物の中で思考力を持つ人間は自我を理解し、他の生物よりも意識に帰ることに近づいた種と言える。つまり思考して意識を理解できる生物が生まれてくるのは、生命の進化の必然と言える。


 意識は直感と関係している。直感は無心の時、意識からやってくる。人間は直感に気づく。直感は全体と調和する。反対に自我による思考はそれを邪魔する。植物や動物に思考力はないが意識はある。つまり意識として在り、直感がいつも流れ込んでいる。よって直感に従うこれらの生き物はその動きも調和し、複雑な生態系も自然にバランスをとって全体と調和する。


 意識は表情もなく返事もしない。ただ直感という形のないものや出来事で人間を動かす。人間はそれらを脳で解釈し、体を使って表現する。


「体が自然に動いたため、このような素晴らしい結果が出せた」と言う芸術家やアスリートがいる。それは意識がその人を使うため。そのアイデアは直感としてやってくる。


 スポーツで言われるゾーンやフローという状態は意識として強く在る状態で、無心の時。よって邪念も恐れもなく、直感に身を任せた質の高いプレーが起こる。


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