○プラウトヴィレッジにおける教育
プラウトヴィレッジの教育では、大きく次の3つが柱となる。
・自治体運営と自給自足するためのあらゆる知識や技術。例えば自然農法の仕方、生活品の作り方、そのための文字の読み書きなどを、幼い頃から生活を通して学ぶ。
・学び方を学んで、好奇心に従った活動。好奇心に従って取り組んでいけば自然と学ぶ事柄が増え、特技、適職、天職へとつながっていく。それが深い経験値となり、人格の向上にも影響する。
・無心と自我について。無心は直感の源で進むべき方向へ人生を導く。「私」という自我についての無知が人間の苦しみを生み出す。
これらのことは学校という大きな単位よりも、サークルなどのようなグループ単位での活動で学んでいくことが基本となる。
○無心について
人間誰もが不幸せより幸せになりたいと思っている。そして多くの場合、何かを得ることでそれが叶えられると信じている。例えば「お金をたくさん稼げばあれもこれも買え、幸せになれる」「有名になったり何かで成功すれば幸せになれる」「あの異性と付き合えれば幸せになれる」など。
例えば気になる異性と付き合うことになり、始めは嬉しい気持ちで一杯になっても、時間が経つと次第にその感情が薄れ、場合によってはケンカが多くなり、苦しくなり、別れに至ることがある。付き合う前には相手を所有したい欲望が生まれ、それが付き合うことで喜びや幸せに変わり、別れ際には苦しみがやってくる、という過程を経る。
ここで大事なことは、どんな外部的な事柄も、得て満たされるのは自分の中の所有欲や自己顕示欲(けんじよく)で、そこで得られる喜びや幸せは長続きせず、もっと欲しくなり、やがて苦しみに変わり、それに囚われているうちは、幸せと苦しみのサイクルを延々と繰り返す。幸せと苦しみは表裏一体の関係にある。しかし人間は、苦しむより幸せになりたいと思っているわけで、その答えはどこにあるのか。その答えは幸せと苦しみの両極端の間の「無心」にある。無心に、穏やかさ、平安、安らぎ、静寂、平和がある。ここで無心を理解するために、次の簡単な方法を行ってみる。
○意識を一点に集中して無心になる
立ってでも胡座(あぐら)を組んでも良いので背筋を伸ばし、20秒間目を閉じる。その中でもし頭に何か考えや言葉が浮かんできたら、それが思考。そこから苦しみが生み出される。
次にもう一度20秒間目を閉じてみる。そして眉間(みけん)に意識を向ける。すると意識が一点に集中しているので思考が止み、無心になる。つまり意識的に思考を止めた。さらにゆっくりとできるだけ長く鼻から息を吸い、ゆっくり吐くとより深く集中できる。これは目を開けて行っても良い。
眉間の裏辺りは思考が浮かんでくる場所で、ここに過去の思い出や未来の予測や不安が突然浮かんでくる。そして無心になるとそれらが止み、静寂が訪れる。つまり思考の勝手なお喋りがなくなり、苦しむことが減る。あとは一日中、この意識的な注意を続ける。継続してクセづいてくれば脳内が常時静かになり、思考が起こってもすぐそれに気づき、無心になろうと習慣化される。
これは意識的に注意深い状態にあるということ。これと反対が無意識の状態。誰でも怒ったり興奮した時、感情のまま暴言を吐くことがあるが、それは無意識の状態で注意深くないから起こる。今行ったように意識的に内面を観ている時は、注意深い状態なので感情に流されることが減る。
眉間に意識を向けるのは一つの方法で、対象はなんでも良い。例えば流れる雲を見つめる、歩きながら環境音に意識を向ける、呼吸に意識を向ける、好きな事を通して何かに一点集中するなど。
○思考が苦しみを生む
意識的な無心を毎日繰り返していくと、思考に頭が占められた時も、それに気づくようになる。こうして一日の中で無心の時間が増えるごとに、思考が生み出す苦しみは減っていき、静かに止んでいることが習慣化されてくる。心が静かでない人は思考グセがついている。ネガティブな考えが多い人は、鬱(うつ)になることもある。
この方法で一つ大事なことに気がつく。頭を無心にしていても勝手に思考が始まり、過去を思い出し始めたりして、怒りや悲しみの感情が沸き起こる。それは自分でも気づいていないほど昔の思い出や、心の傷、劣等感だったりもする。この思考の習性を知らない人は、勝手に起こる思考に感情が振り回され、怒ったり悲しんだりして苦しむことになる。しかしこういった思考が起こった時も「これは一時的で、無心になれば思考も苦しみも止む」と知って無心になれば、やがて穏やかな状態、静寂の状態、落ち着いた状態にとどまれる。ただ強烈な怒りや不安が起こる場合は、落ち着くまでに時間はかかる。
ここで理解できることは、無心の時、人間の心は穏やかになり、平和になる。一般的な価値観である何かを得たり達成したりして得られる幸せ、喜びは一時的で、時間が経てばそれらは薄れ、再び欲望が現れ、それが執着となり、苦しみが始まる。幸せと苦しみは表裏一体で交互にやってくる。そこに穏やかさはない。永続的な穏やかさは心を無心にした時だけ得られ、それは思考を止めるだけ。思考が頭を占め、何かに執着するほど苦しみが生まれるので、その過程をよく観察し、その気づきを得ていけば、より簡単に頭に刷り込まれた苦しみを生み出す思考パターンから抜け出しやすくなる。
幼稚園児の時は思考力がそこまで発達していないので自我も弱く、悩み事も少なく、常に楽しそうに過ごせる。怒られてもケンカしても、10分もすれば何事もなかったかのように過ごす。10歳頃から第二次成長期に入ると体つきが大人になり、思考力も高まって自我(エゴ)も強くなる。するとその分、悩み、妬み、劣等感、苦しみ、争いが増えてくる。
思考を止め、無心になるというのは何もせずにじっとしている時もあれば、無我夢中で何かをしていることもある。ただ頭を無心にしていると、そこに直感が入ってくるので、あとはそれに身を任せるだけとなる。思考を使うことは悪いことではなく、何か計画を立てたりする時は使う。それ以外の時は思考を沈めておく。無心になるのに生活環境を変える必要はなく、仕事を続けていても、日常生活を送りながらでもできる。
○人生の目的
全ての人間は常に何かに悩み、苦しんでいる。その苦しみは、過去の記憶や未来への不安からくる思考があるために生まれる。しかし無心の人の内面には平和、穏やかさが訪れる。すると苦しみの連鎖から抜け出す。
日常生活で自分の身の回りに起こる問題や人間関係は、自分の思考からくる行動と発言が作り出したもので、無心になり沈黙を基本としながら節度ある会話量で人と接すれば、不必要な問題が起こりにくくなり、問題が起こったとしてもそれを問題とみなさず悪化させない。例えば苦手な人に出会った時に頭で苦手だと考えていると、相手にそれがいつの間にか伝わっていることがある。苦手だと思ってもすぐに気づいて無心になると、その後人間関係が悪化しづらくなる。
無心になり、思考(自我)→欲望→執着→苦しみのサイクルを抜け出し、心穏やかにあることが、プラウトヴィレッジが推奨する人間の人生の究極的な目的。人間の動作にクセがあるように、思考にも思いグセがあり、それがネガティブなものであれば無意識に苦しむことになる。無心をクセづけて、それを克服する。
思考(自我)がなく「私」がないと、私の体も私の物もなく、私の人生の意味もなくなる。この思考がない時、最後に頭に残るのは意識だけ。意識が最初にあって、次に思考(自我)が起こる。つまり意識が本体で、自我がその後に現れるもの。人間が「私」だと思っている自分の名前や体、性別、国籍などは幻想であり、意識が人間本来の姿。思考がなく意識だけの時には穏やかさや平安が訪れ、そこから思考「自我」が現れると苦しみが始まる。
プラウトヴィレッジが推奨する自我の克服という人生の目的は、言い換えると人間の本来の姿は意識ということに気づくことで、無心になり意識として在ることを指す。
人間は人生経験を通じて様々な気づきを得ていく。その過程で人として成長し、成熟していく。この成長と成熟というのは自我の克服へ向かう方向である。未熟な時は自分勝手な振る舞いをしていても、成熟するにつれて「私」が抑えられ、他人を尊重し優先していく。つまり人間は自我から意識という本来の姿に戻るまでたくさんの人生経験を重ね、気づきの数が増えていく。やがて自我を克服し、意識という本来の姿に気づき戻った人にとっては、人生の意味というものはなくなる。そこに至るまでは何度も自我によって、一時的な喜びと苦しみを行ったり来たりする。
また、意識として在り無心の時、人間は直感を得る。それによって行動が起こる。時にはそれが天職、適職につながることがあり、情熱を注ぎ始める。それが人生で成すべきもう一つの目的という場合もある。
○直感
人間は無心の時に直感を得て、そして何らかの技術でそれを表現する。直感、閃き、アイデア、インスピレーションなど呼び名は様々であっても、これら大本はすべて同じで、すべては頭の中で気づくことから始まる。
そして何かに取り組めば、深く思考することも増える。我欲で思考している時、無理に答えを探し出そうとしていることがあり、そのアイデアは後から見れば良くなかったということが多い。ただ他者や世の中のためなど、純粋な気持ちから考えてしまう時は、とことん考えたほうが良い。
その後、気分転換が必要になるが、これは考えつくした後でということが前提になる。この考えつくすというのは、脳が実際にねじれているような感覚に達するまで、脳が疲れて考えられなくなるまで、もう探求する要素がないというところまでを指す。自分の中に探求できる要素が残っている場合は、本当に必要な閃きを得ることはできない。常に自分の思考や知識の限界に達する必要があり、そこまで思考して気分転換をすると、限界を超えるための閃きが頭に浮かんでいる。
気分転換の方法は人それぞれだが、寝るという行為には大きな効果がある。頭へ大量の情報を流し込み、探求し、脳が処理できなくなる、または疲れたというところで寝る。すると脳内の情報が整理される。起床後、頭がすっきりとし、フッと解決策が浮かんでいる。こういったことは脳の1つの習性だが、脳には入力、整理(無心、ぼーっとする)、出力という3段階がある。これに気づき活用する人は、休憩前や1日の終わりに次に取り組む問題を頭に詰める。そうすれば休憩後や一晩寝ることでアイデアが浮かぶ。寝る時間は30分でも良い。寝るという行為は非生産的で不真面目な行為ではなく、直感を得るという観点から見れば効果的なもの。シャワーを浴びる瞬間に頭が無心になってアイデアが浮かぶということもあるが、気分転換や寝ることなど1度頭に無心の時間を設けて整理すれば、無心になった空間に直感が入ってくる。
無心になるには、誰にも邪魔されず1人になる時間、孤独、暇な時間が適していることがある。孤独は寂しいもの、友達がいなくて虚しいものなどネガティブな印象もあるが、直感を得たり、内観して精神面を向上させるには孤独が適している。
直感を掴むとはとても単純な行為であり、考え出すというよりも無心になって頭に浮かんだものに気づき、それに素直に従うだけとなる。直感は一瞬にして頭の中に用意されている。
スポーツなどでも直感的に体が動いたプレーというのは、素晴らしいプレーが多い。そのプレーの一瞬前に「こうするべき」という閃きがあり、それを実行すると必ず良い結果になる。実行するというよりは、自然と体が動いたという表現が近い。反対に不安や恐れが頭を占めている時に良いプレーはできない。物作りにおいても、無心で出来たものは良い物になる。直感に従った行動や生き方というのは良い結果を生み、それは人間を含め生物の本質的な生き方であり、本来持つ能力が最大限に発揮される生き方でもある。つまり無心になるとは静かに何もしないということでもあり、その中で直感がやってきて、成り行きに身を任せて行動するということでもある。
取り組む事柄がその人に適していれば、そうでない事柄より直感が得やすくなり、自然と行動に自信が溢れ、堂々とし、魅力的になる。つまり天職、適職である。しかし他のことをすれば、平凡な能力しか発揮されなかったりする。つまり誰でも得意なことを見つければ驚くような力を発揮することができ、何が向いているのか自己探求すれば良いわけで、子供のように好奇心があれば取り組んでみると、天職、適職は見つかりやすくなる。大人でも趣味の領域にそれらが見つかりやすい。天職や適職はそれを行なっていることが自己表現であり、喜びでもある。ただ天職の場合は人生や命をかけた使命感があり、見返りを求めず与えることに徹することができるが、適職は金銭などある程度何かの見返りを求める。それが2つの違いと言える。
○シナプス
直感を活かすためには多くの場合、身体的な技術が必要になる。人間の脳や体には多くの神経細胞が詰まっており、そこを微弱な電気信号が流れることで、脳からの指示が筋肉に伝わる。神経と神経をつなぐ組織にシナプスというものがあるが、このシナプスは良く使う部分は太く、あまり使わない部分は細くなり、やがて切断する。神経をつなぐシナプスを太くしていくと、脳からの電気信号の流れがスムーズになり、勉強においては答えが早く出せるようになり、運動では動きが滑らかで早くなる。
このシナプスを太くする方法は反復練習にある。反復練習というのは、1度覚えたことを何度も繰り返し行う。興味のないことの反復練習は苦しいものとなるが、好きなこと興味のあることであれば練習も比較的楽しいものとなる。
そして中長期的に反復を繰り返し、脳→神経とシナプス→筋肉の経路ができれば、1週間や1ヶ月練習しなくても覚えた技術は忘れない。これを長期記憶と呼ぶ。シナプスの数が多ければ、脳からの電気信号を正確に早く筋肉に送ることができる。複雑で高度な技を披露する上級者は、長年の反復練習によって長期記憶にまで達し、シナプスが太く多くなっている。上達には反復練習以外になく、長期的に取り組めることは好きなこと興味のあることで、近道はない。
こういったことが理解できると、現実の生活には無駄が多いことが見えてくる。例えば語学学校の年間授業料は20万円から100万円と多様に存在するが、20万円より100万円出すほうが自分に対して良い教育をしてくれ、上達も早そうに思える。そういった面は確かにあるが、しかし外国語を話せるようになるには自分で話す以外上手くなる道はなく、100万円払い良い先生がいて安心感はあるが、20万円の5倍早く喋られるようになるわけではない。とにかく会話をしてシナプスを太く多くし、頭で単語を変換せずとも自然と言葉がでてくるまで反復を繰り返すだけとなる。つまり本人の学びたいという意欲と反復だけとなる。たまに取り組むというペースではなく、好奇心がある間に毎日集中して取り組んで長期記憶まで達することが重要であり、成長量は反復回数に比例する。あとはその個人の生まれもった才能、性格、身体能力、環境によって、伸びる部分や上達期間に差がでてくる。
○シナプスが育つ目安時間
例えば踊りの簡単なステップ、打楽器の短いリズム、スポーツのシュートなど、技術的に最小の動きがある。初心者がこれらの1つに取り組んだ場合、1日30分の練習を繰り返すと、1週間ほどで体がその動きを覚え始めるが、まだぎこちないレベル。1ヶ月目にはその質はもっと高まり、3ヶ月目には考えなくても自然と体が滑らかに動くようになり、質が高いとは言えないが素人っぽさはなくなる。この3ヶ月目までに2つ3つと他の基礎技術も練習していれば、それらの複合技もできるようになる。ただこれもやっと体がその動きをできるようになった段階。これはシナプスが育つ短い時間の目安。
あとは高い集中力が維持できる練習時間で、動画なども使って上級者の動きとも比較し、修正し、反復し、新しいことにもチャレンジし、この自己分析を年単位で続けていくほどレベルが上がる。そのため、本当に好きなことしか高い意識を持続することができない。3年ほど経つと、明らかな実力として結果が出せるようになる。シナプスに年齢は関係なく、何歳でも上達する。ただ運動と同じで、若い時から高齢になるまで運動し続けている人は、高齢で新しい動きを学んでも、シナプスができているので体がすぐに順応できる。反対に高齢になって突然運動を始めても、シナプスが少ない分時間がかかり覚えも悪い。これは頭を使うことでも同じ。
○小さく簡単から
誰でも初心者から上級者へ向かうが、初心者が心がけるべきことは最小のものから取り組み、慣れとともに最大のものへ進んでいくということ。例えば動作に関することであれば、基礎技術から取り組み始める。速さから求めるのではなく、遅く確実から速く確実へ進む。物づくりにおいては、短時間で完成できるものから取り組む。少ない作業量のものから取り組むと、小さな成功の連続によって常に達成感を感じることになるので、楽しみながら続けることができる。
○覚えようとするよりも見慣れる
一度見たものをすぐに覚えられる記憶力の良い人もいれば、何回見ても覚えられない人もいる。例えば英語を学ぶ場合、記憶力の悪い人にとって単語を覚えることは大変なこと。単語帳を端から端まで見て覚えるのも苦痛だが、覚えたところで実践で使わない単語はすぐに忘れる。反対にどんなに記憶力が悪い日本人でも、ほとんどの人は日本語をなめらかに喋ることができる。それは小さな頃からずっと日本語に接しているため、無意識に何回も日本語を見聞きし、それに慣れている。つまり覚えようとするより、使い続ければ単語や言い回しに慣れ、自然と頭に記憶されている。つまりもし何か覚える必要があれば、実践の中で新しい言葉や知識に何回も触れる状態を作る。英会話であれば様々な題材を用意し、たくさん会話をしていると自然と新しい単語を見聞きし、使う必要も出てくる。そのようにして覚えようとするより、意図的に何回も知識に触れるように工夫しておくと、例え記憶力が悪くてもやがてそれに見慣れ、頭に記憶されている。
○自信を失う瞬間
そしてどんなことに取り組んでいても、反復を繰り返しているうちに成長を感じなくなる時が訪れる。人間の成長は「やや右上がり→少し下がる→急激に右上がり」を繰り返す。楽器やスポーツの基礎技術は単純な動作だが、同じ動作を30分から1時間繰り返すと失敗が増えてくる。体が疲れてくると同時に感覚が麻痺してくるような状態だが、これを人によっては調子が悪くなった、下手になったと言い表すこともあり、一時的に自信を失う瞬間でもある。こうなれば一旦休憩する。この休憩の間に体や頭が整理され、再び練習を再開すると休憩前よりスムーズに行えるようになる。ただこれは1日のなかにおいての取り組みなので体は疲れ、動きの精度は下がり続ける。これを数日間繰り返して行うとある数日間、調子が悪くなる時が訪れるが、それが過ぎれば大きな成長を感じることになる。
基本的にはこの繰り返しで長期記憶まで達する。反復を繰り返して体が動きを覚えることが長期記憶なので、質の低い長期記憶から質の高い長期記憶まで人それぞれとなる。
○余裕
質の高い長期記憶に達すると、考えなくても体が動くようになるので心に余裕が生まれる。その余裕の分だけ心が落着き、直感に気づきやすくなり、アイデアが生まれやすくなる。例えばこういったことを、サッカーを例に考えてみる。
初心者が足で転がってきたボールを止める時、頭は止めることで精一杯になるが、中級者になれば周囲の状況を確認してからボールを正確に止める。そして上級者は周囲の状況を確認し、止めることと相手のゴールへ向かうドリブルの1歩目を同時に行う。さらに上級者になると周囲の状況を確認し、止めることと相手のゴールへ向かう1歩目で相手1人を抜く。
こういったことは1つの例だが、ボールを止めるという基礎技術がどこまでも高まればそれだけ余裕が生まれ、1つの技術から発展した数多くの発想が生まれる。さらにスピードや正確性も増す。あらゆる上級者は基礎レベルが高く、初心者は基礎レベルが低い。上級者同士の基礎レベルにも差があり、結果それらを組み合わせた応用技術、スピード、判断力、余裕に差が生まれ、全体のレベルが違ってくる。
○好奇心
基礎の反復と合わせて考えるべきことは、スポーツが好きなら試合をすることから、楽器をするなら好きな曲で簡単なものから、料理を覚えたければ今すぐ食べたくて調理が簡単なものから、デザインをしたければ好きなデザインでシンプルなものを作ることから、外国語であれば辞書のAからZを覚えるのではなく、日常会話でよく使われる言葉から取り組むことが重要となる。
今求めている事柄やすぐに役立つ事柄から行うことで、まずその満足感を得ることができ、小さな成功体験によって意欲の継続につながる。自分の好奇心を第一優先にして取り組む順序を決定すると、最も自然で最善に物事が進む。多くの場合3年続けると自分の独自性が確立されてくるが、好奇心を優先せず参考書の1ページ目から取り組むようなやり方は、楽しみを感じながら取り組むという要素を大幅に減らしているので、途中で飽きてしまうことが多い。これは貨幣社会の学校で行われる本人の好奇心とは関係ない教育方法にみられるが、反対に遊びとなると誰でもしたいことを真っ先に行うので常に楽しく、よって継続でき、気づけば成長している。
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