7章 無について -信仰の起源-

  ここまで見てきた共通シンボルは無を表し、無は意識のことという結論だった。ただそもそも無なので名前すらない。ここでは無についてもう少し詳しく考察する。


輪廻転生と自我


 無のシンボルだったインドのシヴァ神は、眉間(みけん)に第3の目を持った姿で表現されることがあり、この目は欲望を焼いて灰にする。欲望を焼くとは無欲になるということだが、無欲になることと関係しているのは、内なる目、心眼、直感、ゾーン、ブラフマン、真我(しんが)、輪廻転生(りんねてんせい)、解脱(げだつ)、悟りなど。

シヴァシヴァ


 輪廻転生は死んであの世すに帰った魂が、何度もこの世に生まれ変わることを言う。これは仏教、インド哲学で見られ、ギリシャでも哲学書パイドンの中で、プラトンの師ソクラテスが死と生まれ変わりについて次のように語っている。

「それではこの点からも、われわれは同意したのだ。死者が生者から生ずるのと同じように、生者は死者から生ずるのである、と。ところで、こういう事情であれば、それは、死者たちの魂が必ずどこかに存在していて、そこから再び生まれてくるはずだ、ということの充分な証明になる、と先ほどわれわれは考えたのだね」


 南アメリカの密林に住む先住民ヤノマミ族や西アフリカのドゴン族にも、死者は精霊となって死後の世界や天に帰るという概念があった。

 南アメリカ南端部のティエラ・デル・フエゴに住むアラカルフ族は、至高の存在ソラスが新生児の一人ひとりに魂を入れ、人間が死ぬとその魂はソラスによって再吸収される、と信じている。


 キリスト教の新約聖書では輪廻転生という表現はないが、コリントの信徒への手紙で死んだ人間が神の国で霊になって復活するという説明がある。

「死者の復活もこれと同じです。(中略)つまり、自然の命の体が蒔(ま)かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」

「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽(く)ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」

 輪廻転生ではないが、西アフリカのアシャンティ人でも霊についての概念がある。ここではすべての個人がスンスム(自我)とクラ(生命の力)を受け取ると信じている。そして人間は自分の霊であるントロを、子供に伝達すると言っている。つまりアシャンティ人にも、古代からすでに自我や霊の概念が存在した。

 話は戻り、輪廻を抜け出して自由になることをインドや仏教では解脱(げだつ)と言う。これは煩悩(ぼんのう)の縛りから解放され、自由の境地に到達し、悟りとも表現される。煩悩、つまり人間の人生は欲望があるので執着が生まれ、それにより苦しむ。欲望は「私」という自我(エゴ)から生じ、無欲になるとは自我(エゴ)を滅するということ。解脱はインド哲学では最高目標とされ、人間が果たすべき人生の目的。この輪廻の繰り返しから抜け出すには、自我(エゴ)を滅するしかないということ。


 シヴァの欲望を焼く第三の目の位置と解脱には関係がある。自我(エゴ)があることで思考が起こり、欲望が生じる。脳内を無思考にする時、そこに自我(エゴ)は存在しない。無思考は毎日誰もが瞬間的に経験しているが、意識的にその状態に在ることが自我(エゴ)を滅する方法。次はその行い方。


思考を止める方法


「①眉間に意識を向ける」

 立ってでも座ってでも良いので、20秒間目を閉じる。その中でもし頭に何か考えや言葉が浮かんできたら、それが思考。そこから苦しみが生み出される。

 次にもう一度20秒間目を閉じてみる。今回はゆっくりとできるだけ長く鼻から息を吸い、同様に鼻から吐き、眉間(みけん)に意識を向ける。すると意識が一点に集中しているので思考が止み、無心になる。つまり意識的に思考を止めた。眉間から眼球裏の松果体(しょうかたい)までの間は思考が浮かんでくる場所で、ここに過去の出来事や未来の予測や不安が不意に浮かんでくる。無思考になると静寂が訪れる。つまり思考の勝手なお喋りがなくなり、その瞬間は苦しむことがない。あとは常に、この意識的な注意を続ける。継続していけば脳内が常時静かになり、思考が起こってもすぐに気づき、沈めることができるように習慣化される。そしてより深い集中状態となり、穏やかな心が続く。一日の中でどれだけ意識的な注意を維持できたかが、精神的な進化の度合いを示す。これは目を開けて行うこともできる。

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 これらは意識的に注意深い状態にあるということ。これと反対が無意識の状態。誰でも怒ったり興奮した時、感情のまま誰かに失礼なことを言ったりする経験があるが、それは無意識の状態で注意深くないから起こる。今行ったように意識的に内面を観ている時は、注意深い状態なので感情に流されることがなくなる。思考を意識していない人は思考に振り回されるので、不意にわき起こる劣等感、過去の怒り、固定観念を通して世の中を見ることになる。こういった思考の性質と知ることが重要で、突然起こる思考は本当の自分ではない。

眉間に意識を向けるのは一つの方法で、対象はなんでも良い。例えば流れる雲を見つめる、呼吸に意識を向ける、何かに一点集中するなど。ただテレビや動画のように、情報がすり込まれるような物は避けたほうが良い。


「②意識に意識を向ける」

 そして何か対象物に集中することに慣れてくれば、意識そのものを意識する。意識は形も香りも音もない。無心の時、思考がなければ意識のみが残る。この意識として在る状態が本当の姿。その意識が古代より神として呼ばれてきたもので無のこと。


無心、心眼、ゾーン


 何か一点を意識的に観察することによって無心になり、よって無欲の状態になり、それを継続すれば穏やかな状態が維持される。この無心状態で日常の物事を見ることを、内なる目、心の目、つまり心眼で見ている状態と言う。つまり思考がないので、偏見を持たない子供と同じ純粋な目で見ている。よって本質を見極められる。また物作りやスポーツなど、無心で体が勝手に動き、質の高いパフォーマンスを発揮する高い集中状態が継続することをゾーンやフローというが、その時もこの心眼で見ている。こういう状態の時は自分の心の声と会話している状態になり、高い集中状態で意識は内面を見ていて、次の動きが容易に頭に浮かぶ。時には周囲がスローモーションで動いているように見えたりもする。つまり両目で50%見て、心眼で50%見ているような割合。思考しなければ体は動かないのではなく、無思考でも体は動き、無思考の時は最大能力が発揮される。なぜなら直感に逆らわず身を任せて行うためである。その直感は意識(無)からやってくる。

 直感に身を任せ、ゾーンのように高いパフォーマンスを発揮する瞬間も、無の意志として行動していると言える。そのため人間の最大能力が発揮される。直感とは無心の時に意識からやってくる。反対に不安や恐れ、邪念が心を占めた状態で活動をすると、パフォーマンスの質が低下する。これらは思考なので、直感のように瞬時に体が反応することよりも圧倒的にスピードが遅い。また、もし見返りを求める行動ならそれは欲からであり、そうでなければ純粋な行動と言える。

 

 人間は気づいていてもいなくても、誰もが意識(無)そのもの。意識は永遠だが、肉体は一時的な衣服にすぎず、死ぬときには脱ぎ捨てる。つまり意識が生命の根源的なもの。これを知らなければ物質的なものや体、形に執着する。次の文章はアフリカと南アメリカに古代から伝わる至高の存在の説明。その神を意識という言葉に置き換えて読んでみれば、どの部族も古代から同じものを崇めてきたということがわかる。

 西アフリカのアカン族は彼らの神をニャメと言い、それは「至高の存在」「唯一の輝き」「創始者」「すべての最初の発動力」を意味する。そのニャメを次のように表す。

「誰も子どもたちにニャメを指し示すことはできない。」

「世界は広いが、ニャメが長である。」

「すべて人々は二ャメの子孫であり、誰も大地の子孫ではない。」

「ホークは言う。ニャメのなす全ては良いことだ。」

 「ニャメの定めた秩序を人間は破ることはできない。」

「ニャメの与える運命を逃れる道はない。」


 南アメリカ大陸南端部のティエラ・デル・フエゴに住むヤーガン族は、ワタウィネイワ(最も古きもの)という至高の存在を信仰している。至高神は慈悲深い神であり、有形のからだはもたないが、天空に住まっている。


 同じくティエラ・デル・フエゴに住むオナ族も、テマウケルという至高の存在を信仰している。テマウケルは身体も妻も子供もなく、常に存在しており、宇宙と社会的・道徳的な規範を支えている。彼は星辰(せいしん)の上方に在り、目には見えず、慈悲深く、人間の個々人が難儀に際して祈るときは、その祈りの聞き役となる。


 ここまで見てきたように古代から各地の信仰は、意識的、無意識的にかかわらず意識を神として崇めており、それは出所が同じだからという結論。そしてアフリカから南アメリカまで至高の存在(意識)についての深い考察があるということは、人類が出アフリカする以前にすでにアフリカで、仏教でいう解脱を果たすような人物がいたということになる。


意識と解脱


 意識(無)はテレビに例えるとわかりやすい。テレビ本体が「意識」。テレビ画面をつけた時がビッグバン。テレビ画面に映る映画が宇宙で、登場人物が人間。その登場人物もそこに映る世界もテレビ本体の一部であるように、実際の人間も意識である。ただこの登場人物は自分がテレビの中にいることに気づいていない。その画面の中で生まれ、死んで、また生まれてを繰り返しながら、様々な時代の役を演じ、快楽と苦しみを経験し、経験値が増える。実際のテレビ本体には色や形があるが、意識にそれはない。


 人生は映画のようなもので、自我が役を演じて経験しているということ。また映像の中で爆弾が爆発してもテレビ本体は傷つかないが、それは意識も同じ。つまりこの世に起きていることは、テレビに映った映像のようにすべて幻想。だから人間は自我という幻想の映画の世界に生きていることに気づき、この世の執着を手放して意識を意識していると、輪廻転生が終わり解脱する。死の際に現世の富、名声、家族、後悔や怒りなど何かに執着心を残していると、それが課題となり克服するため再び転生する。


 無心になると脳内には認識するもの、つまり意識だけが残るが、それをインドの哲学者シャンカラ(700〜750年)は教説ウパデーシャ・サーハスリーの中でアートマンと呼び、次のように述べている。

「アートマンは解脱し、輪廻することがない」

「私(アートマン)は実在であり、認識主体である」

「ある灯火を現し出すのに、別の灯火を必要としないように、認識がアートマンの本性であるから、アートマンを認識するのに、アートマンとは別の認識は必要ではない。」

「私(アートマン)は一切万有、清浄であり、悟っており、不生であり、一切に遍満(へんまん)し、不老、不死、不滅である。私は業(“ごう”、善悪の行為)の監督者であり、目撃者であり、観察者であり、恒常(こうじょう)であり、属性をもたず、不二(“ふに”、2つとないこと)である。私は有でもなく、非有でもなく、両者でもない。絶対にして、吉祥(“きちじょう”、よい前兆)なものである。私には夜も昼も黄昏(たそがれ)もない。私は虚空(こくう)すらももたないブラフマンである。」

「それだけで確立したものには、なすべき義務はない。」

「アートマンは内も外も含み、衰微することなく、生・死・老を超越し、私はアートマンであるとすでに知っている者は、何も恐れることがない。これを知ることを明智(めいち)と言い、これを知らないことを無知(むち)としている。」

「すべての人が解脱すれば、世界は消滅する。』


 アートマンとしてあることは意識として在ることで、それを知り、アートマンとして在ることが悟りで、解脱することだとシャンカラは述べている。仏教では、ブッダがウダーナヴァルガ(感興”かんきょう”のことば)で、無心と解脱について次のように述べている。


「思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。(中略)聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。」

 仏教では悟りを開いた人を仏(ほとけ)や仏陀(ぶっだ)と呼ぶが、仏性(ぶっしょう)という言葉も意識を指し示し、これは悟りそのものの性質を指す。古代インドの聖典バガヴァッド・ギーターでも、聖バガヴァッド(プルシャ、ブラフマン、=意識=無)は次のように述べている。

「臨終の時、私(聖バガヴァッド)のみを念じて肉体を脱して逝く者は、私の状態に達する。この点に疑いはない。臨終において、人がいかなる状態を念じて肉体を捨てようとも、常にその状態と一体化して、まさにその状態に赴く。それ故、あらゆる時に私を念ぜよ。そして戦え。私に意(こころ)と知性を委(ゆだ)ねれば、疑いなく、まさに私のもとに来るであろう。常修のヨーガに専心し、他に向かわぬ心によって念じつつ、人は神聖なる最高のプルシャに達する。」

 古代中国の書物の老子(ろうし)では、無心になって周囲を見渡すと、あらゆるものは道へ帰って行っているのがわかる、という記述がある。道とは無のこと。

「心をできるかぎり空虚にし、しっかりと静かな気持ちを守っていく。すると、万物は、あまねく生成変化しているが、わたしには、それらが道に復帰するさまが見てとれる。そもそも、万物はさかんに生成の活動をしながら、それぞれその根元に復帰するのだ。」


 アジアだけでなく古代ギリシャでは、哲学者プラトン(紀元前427年 – 前347年)が著書パイドンで似た内容を述べている。ここでは魂が意識(無)のこと。


「もしも、魂が純粋な姿で肉体から離れたとしよう。その場合、魂は肉体的な要素を少しも引きずっていない。なぜなら、魂は、その生涯においてすすんで肉体と交わることがなく、むしろ、肉体を避け、自分自身へと集中していたからである。このことを魂はいつも練習していたのである。そして、この練習こそは正しく哲学することに他ならず、それは、また、真実に平然と死ぬことを練習することに他ならないのだ。それとも、これは死の練習ではないかね。(中略)それでは、魂が以上のような状態にあれば、それは、自分自身に似たあの目には見えないもの、神的なもの、不死なるもの、賢いもの、の方へと立ち去って行き、ひと度そこに到達すれば、彷徨(ほうこう”彷徨い”)や、狂愚(きょうぐ)の振舞いや、恐怖や、狂暴な情欲や、その他の様々な人間的な悪から解放されて、幸福になるのではないか。そして、秘儀を受けた人々について言われているように、残りの時間を真実に神々と共に過ごすのではないか。」

 

 キリスト教の新約聖書のヨハネの手紙1では、次のような表現で述べられている。

「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父(おんちち=神=意識)への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心(みこころ)を行う人は永遠に生き続けます。」


 こういった現象の理解は、自分の周囲の出来事からもヒントを得ることができる。意識的に無心になった時に気づけることの一つに、突然思考が起こるということがある。それは過去の記憶からくる。怒り、後悔、苦しみ、楽しかったことなど。反対に未来への恐れなども浮かんでくる。この性質に気づいていないと、その思考に心が奪われ、それに反応して生きる。だから人間は自己中心的な行動をする。つまり突然の思考が感情を生み、その感情は次の思考を生みという連鎖に入る。この過去の記憶の条件付けをヒンドゥー教や仏教などではカルマと言い、運命とも言う。これを知らなければ思考は止まず、欲望を持ち続ける。
 多くの人はいつも物や機会を求めているが、それが難しい事柄でない場合、その執着を少し継続すれば、大概の場合それを得る。それが難しい事柄の場合は、長く強い執着が必要となる。つまり執着することにより、望んだものが物質的な形として手元に来る。本を読みたい人のところには、本を読む機会がやって来る。お金が好きな人の所にはお金がやって来る。動物を飼いたい人の所には、動物を飼う機会がやって来る。これがこの世の法則と言える。
 それと同じく、死ぬときに生への執着が残っていれば再び生まれてくる。生への執着が死ぬまでに滅していれば、生まれ変わらない。それがこれまで見てきた各宗教で述べられていること。

 生への執着がなくなれば何もしないというわけではなく、ただ人生でなすべきことが、意識より直感としてやってくる。そしてあとは成り行き任せとなる。生への執着を滅するというのは、命を軽んずるわけではない。


 このように、眉間など何か一点や意識そのものに意識を向けると無心になり、欲望が生み出されず、継続すれば執着がなくなり、穏やかになる。死の間際にも意識へ意識を向けていれば、人間の究極の目的である解脱を達成する。


意識の宇宙創造


 中国の陰陽思想では、原初の混沌(カオス)の中から陽の気が天となり、陰の気が地となったとされる。キリスト教の旧約聖書の創世記では、はじめに神は天と地を創造されたとある。つまり無極の無から陰陽の2つの極が生まれた。それは天と地、光と闇、喜びと苦しみ、N極とS極などのこと。人間誰もが多かれ少なかれ欲望を持ち、物事に執着し、何かを得て喜んだり、反対に求め苦しむことを経験する。そのどちらにも振れず、無心になり欲望から離れると苦しみが消え、意識として在り、それが定着すれば解脱するという話だった。つまり一種の体験ゲームであり経験。無が自分の無を経験するには、無の反対の有限なものを作り、それに執着することにより快楽と苦しみが生じ、人間の活動を通じてこれらを経験することによって、自分の無が体験できるという仕組み。

 ただこの理解は思考による理解であって、無心である意識が理解するということはなく、ただそれは理由もなく起こっている。つまり宇宙にも生命にも人生にも意味はなく、体験も経験もない。わかりやすく言えば、自分が無心になった時、そこには思考がないので、何かを理解することはできず、目的を持つこともできないのと同じ。目的や理解は思考があるから生じる。


 ここまで見てきたように、各地の宗教とは無である意識を表し、その無は人間の意識のことでもあり、宇宙が誕生する前から存在した唯一のもの。この意識は個人のものという分離したものではなく、全てがつながっている。やがて全生命はこの意識へ帰っていく。

著者 久保田 啓敬



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