■1010年
インドの双頭の鷲
1010年に完成したブリハディーシュヴァラ寺院では、ガンダベルンダの絵が見られる。これは共通シンボルの双頭の鷲(わし)。ここもピラミッド型。
ラーメーシュワラム寺院では彫刻として。
イランの民族叙事詩のシャー・ナーメ
1010年に編纂(へんさん)されたイラン最大の民族叙事詩のシャー・ナーメ(王書)には、両肩に2匹の蛇を生やしたザッハーク王が登場する。
また英雄フェリドゥーンは、赤子の時に母と共に、暴君(ぼうくん)ザッハークの虐殺から逃れるためエルブルズ山に行き、母はフェリドゥーンを牛飼いに預けた。これも他神話との類似している。
■1017年
スリランカのポロンナルワの遺跡群
ポロンナルワにも切込み接ぎの石積み、獅子像が見られる。
■1053年
京都の平等院
平等院(びょうどういん)鳳凰堂(ほうおうどう)にも黄金比が見られる。
鳳凰堂の中堂(ちゅうどう)の入り口の黄金比。
鳳凰堂の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)の黄金比の渦模様。光背も描かれている。
鳳凰堂の阿弥陀如来坐像の周囲の壁には、52体の雲中供養菩薩像(うんちゅうくようぼさつぞう)が飾られ、雲部分の渦模様が黄金比。
■1100年代
カンボジアのアンコール・ワット
アンコール・ワットにも、切込み接(は)ぎの石積み、獅子(ライオン)像、黄金比が見られる。
ライオン像。
北海道のアイヌ民族
擦文(さつもん)文化からアイヌ文化への移行が始まる。これは1000年頃から北海道の日本海沿岸で始まり、1300年頃までにかけて北海道全域に広がる。
アイヌ人のY染色体ハプログループD1a2aが大半を占め、紀元前4万年頃発生した。
次の文は、北海道南部のアイヌ民族の天地開闢(てんちかいびゃく)についての伝承。
「昔、この世に国も土地もまだ何もない時、ちょうど青海原(あおうなばら)の中の浮き油のような物ができ、これがやがて火の燃え上がるように、まるで炎が上がるように、立ち昇って空となった。そして後に残った濁ったものが、次第に固まって島(北海道)となった。島は長い間に大きく固まって島となったのであるが、その内、モヤモヤとした気が集まって一柱の神(カムイ)が生まれ出た。一方、炎の立つように高く昇ったという清く明るい空の気からも一柱の神が生まれ、その神が五色の雲に乗って地上に降って来た。そこからたくさんの神、草木、鳥、獣、魚、虫、人間が作られる。」
つまりこの創成神話も他国の神話と共通パターンで、ここでは「無」を何もない時と表現している。そして神カムイも無を表す。
アイヌ民族の神カムイ
アイヌ民族のカムイノミとは、神に祈るという意味で、神カムイ(無)を天界に帰す儀式。例えば、狩りの獲物に対して、肉と毛皮を土産に持って人間界へ来てくれたカムイに感謝し、神の国へ送り帰す。
カムイは高位の霊的存在のこと。カムイは動植物、自然現象、人工物などあらゆるものに宿るとされる。例えば、火に宿るアペ・フチ・カムイ。ヒグマの衣服で人間世界に来るキムン・カムイ。熱病をもたらす疫病神パヨカ・カムイ。人間に災厄をもたらすウェン・カムイ。人間に恩恵をもたらすピリカ・カムイ。地形上の難所を表すカムイコタン。住居や丸太舟を作るための樹木はシランパカムイ(樹木のカムイ)と呼んでいた。
このカムイが万物に宿る考え方は、神道では八百万(やおよろず)の神という。
■1121年
イランのジャーメ・モスク
ジャーメ・モスクの中央の広場は黄金比を2つ並べた大きさ。中央の道幅も黄金比の比率。
イーワーンも黄金比の比率。
イスラム教のシンボルマークには三日月も見られる。
■1200年頃
沖縄県の勝連城
勝連城(かつれんじょう)の切込み接ぎの石積み。
南米のクスコ王国
クスコ王国はインカ帝国より引き継がれた。インカ神話の創造神ビラコチャは無という結論だった。ここにも切込み接(は)ぎの石積みがある。
ペルーのクスコのロレト通り。
隙間なく密着した石積み。
■1202年
三重県の新大仏寺
三重県の新大仏寺にも切込み接(は)ぎの石積み、黄金比の渦模様が見られる。
大仏の体部は江戸時代の補作で、頭部は仏師の快慶(かいけい)の作とされる。
大仏の石造基壇(きだん)は造像当時のもので、切込み接(は)ぎの石積みが見られる。
大仏殿の裏手にある岩屋不動は岩をくり抜いた場所に立っている。
新大仏寺に祀られている不動の顔の頭部に、黄金比の渦模様が見られる。
この新大仏寺は、重源(ちょうげん)が創建されたと伝えられる。重源は鎌倉時代に東大寺大仏と大仏殿の復興事業を指揮した僧として知られる。
■1215年頃
アルメニア共和国のゲガルド修道院
ゲガルド修道院の切込み接ぎの石積み。
ゲガルド修道院の門のアーチの切込み接ぎ。
十字架もたくさん彫られている。
フラワーオブライフの彫り込み。これもタニトと共に見られる共通のシンボル。十字架も見られる。
■1300年頃
中国の紫禁城
紫禁城(しきんじょう)は中国の歴代王朝の明(みん)の1368年から、清(しん)の1912年までの旧王宮。
紫禁城は2つの黄金比を縦横に並べたときに現れる線の位置に、建物や橋が配置されている。
切込み接ぎの石積みも見られる。
階段の壁や手すりの黄金比の渦模様。
太和門の両側にいる獅子像。その髪の渦模様も黄金比。
紫禁城の獅子像は前足で球体を掴んでいる。球体は宇宙卵(うちゅうらん)で、無を表す。
この球体の模様はフラワーオブライフの模様。これは紀元前645年のイラクのアッシュールバニパルの神殿や、エジプトのオシリス神殿でも見られる。
紫禁城内の亀の像やその他の建物の黄金比の渦模様。
中国神話の竜
中国神話には無数の竜が存在する。竜も中国のバイ族創世神話で見られ、共通シンボルという結論だった。帝王である黄帝(こうてい)の竜を応竜(おうりゅう)という。応竜は水を蓄えて雨を降らせる能力がある。
中国の短編小説集の述異記(じゅついき)には、「泥水で育った蝮(まむし)は五百年にして蛟(みずち”雨竜”)となり、蛟(みずち)は千年にして竜(成竜”せいりゅう”)となり、竜は五百年にして角竜(かくりゅう)となり、角竜は千年にして応竜(おうりゅう)になり、年老いた応竜は黄竜(こうりゅう)と呼ばれる」とある。つまり黄竜と応竜は同じ。
黄竜は皇帝の権威を象徴する竜とされたが、後に麒麟(きりん)と置き換えられたり、同一視された。紫禁城の慈寧門前に二体の麒麟が置かれている。黄竜(こうりゅう)と同一視される麒麟が慈寧門前に二体並んでいるということは、共通シンボルが二体あるということ。日本の神社で言えば、二体の獅子像である狛犬(こまいぬ)と同じ。
雅楽の竜
雅楽(ががく)の曲目の陵王(りょうおう)の装束(しょうぞく)には、胸と腰に丸く竜の刺繍(ししゅう)がされている。つまり雅楽も無を表したもの。
舞楽面、蘭陵王、1300年代の鎌倉時代、高野山天野社伝来。
■1400年頃
ブードゥー教、マクンバ、カンドンブレ、サンテリア
オーストラリアのアボリジニに伝わる虹蛇を同じように神として崇めているのが、ブードゥー教という黒魔術。これは西アフリカのベナンやカリブ海の島国ハイチ、アメリカ南部のニューオーリンズなどで信仰されている。
ハイチのブードゥー教の最高神は肥沃(ひよく)の蛇神ダンバラーウェイドで、その妻が虹蛇の女神アイダ・ウェッド。この2つの神は2匹の蛇で描かれる。
左2つはブードゥー教のダンバラーウェイドとアイダ・ウェッドのシンボル。右はヘルメースの杖カドゥケウス。
ブードゥー教の旗。
1400年代から約400年の間、ヨーロッパ人による奴隷貿易により約1500万人のアフリカ人がヨーロッパや南北アメリカ、カリブ海諸島に連れて来られた。そのときに、彼等の信仰であるブードゥー教も持ち込まれ、ハイチで独自に発展した。さらにアメリカのニューオーリンズにもブードゥー教は定着し、ブラジルではマクンバやカンドンブレ、キューバやベネズエラではサンテリアとなる。
ブードゥー教は動物の死骸や血、酒などのお供えと交換で悪魔に願いを叶えてもらうもので、呪いの儀式を行う。
左はブラジルのマクンバの供物、右はベネズエラのサンテリアの儀式。
アフリカのトーゴ共和国のブードゥー教市場。
マチュ・ピチュ
マチュ・ピチュはインカ帝国の遺跡で標高2430mにある。
左はマチュ・ピチュの位置、右はインカ帝国の位置(1438年〜1527年)。
ここにも切込み接ぎの石積みが見られる。
石割りのための楔(くさび)を打ち込む矢穴(矢あな)が彫られている岩もある。
インカ帝国の国旗も、2匹の蛇、虹、重し(ウェイト)の絵柄となっている。
南米ペルーのオリャンタイタンボ遺跡
ペルーのオリャンタイタンボ遺跡の切込み接ぎの石積み。
■1428年
メキシコのアステカ
メキシコの神ケツァルコアトルは農耕神、トウモロコシの提供者、死と復活の象徴、風の神、金星の神、明けの明星などの象徴で、処女である母チマルマンから生まれた。次の画像はケツァルコアトルの黄金比の渦模様。
神トナティウは太陽神で、手に有翼円盤を持ち、鷲の羽根飾りを身にまとっている。つまりアステカ神話にも共通シンボルが見られる。
次のアステカの創世神話にも、2匹の蛇のシンボルが見られる。
ケツァルコアトルとテスカトリポカが空から舞い降りてくると、ちょうど海を渡ってくるトラルテクトリの姿が見えた。怪物はよほど腹を空かしているのか、大きな口から牙をむいているばかりか、肘や膝など体中いたるところが口と化し、しきりに歯ぎしりしていた。ケツァルコアトルもテスカトリポカも、あのような野蛮な獣がいては、天地創造を終えることはできないと考えた。そこで二柱の神は、 大地を創造するために、二頭の大蛇に変身した。そして一頭がトラルテクトリの左手と右足を抑え、もう一頭がその右手と左足を抑えつけると、両側からひっぱって怪物を真二つに裂いてしまった。やがてトラルテクトリの上半身は大地となり、空中に投げだされた下半身からは天が創造された。
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参考文献
月のウサギ
古代インドの仏教説話集のジャータカの第316話には、釈迦(しゃか)の過去世の一つがウサギだったという話があり、それが日本に伝わり月のウサギの物語となっている。この類似の話はアステカにも見られる。
昔、釈迦はウサギとして生まれ、ある森に住んでいた。このウサギにはサルと山犬とカワウソという友達がいた。この4匹の賢い生き物は一緒に暮らしていて、それぞれが自分の狩り場で食べ物を手に入れ、夕方になるとまた集まってきた。知恵のあるウサギは3人の仲間に真理を説き、施しをすること、道徳律を守ること、聖なる日を守ることを教えた。彼らはその教えを受け入れて、それぞれ森の中の自分の場所に行き、そこに住むようになった。
ある日、ウサギは空を観察し、月を見て、次の日が断食日であることを知り、3匹の仲間に言った。「明日は断食日だよ。三人とも戒律と聖なる日を守り、施しをすれば大きな報いがある。みんなのところに来た物乞いには、それぞれの食卓から食べ物をあげれば大丈夫だから」。彼らは快く承諾し、それぞれが自分の家で過ごした。
翌日、カワウソはガンジス川の岸辺で埋まっている魚を見つけ、それを持ち帰った。山犬も畑仕事の小屋で2本の串とトカゲとミルク入りの壺を見つけて持ち帰った。サルは森からマンゴーを持ち帰った。一方ウサギは、もし誰かが施しを求めてきたら自分の体の肉をあげようと考えた。
その気持ちを知った帝釈天(たいしゃくてん)は、バラモン(司祭)の姿となってウサギたちの気持ちを確かめてみようと思った。まずカワウソの家へ行き、施しを求めた。そのようにして山犬、サルの家にも行くと、全員は快く食べ物を差し出してくれた。
そしてバラモンがウサギの所へ行くと、ウサギはバラモンに火を起こすように頼んだ。ウサギは自分が火の中に飛び込むので、焼けた体の肉を食べ、司祭としての勤めを果たしてほしいと伝えた。そしてウサギはバラモンが奇跡的な力で起こした燃える炭の山に飛び込んだ。ところがその火はウサギの体を焼くことはできなかった。不思議に思ったウサギが尋ねると、バラモンはこう答えた。「私はバラモンではありません。帝釈天です。あなたの徳を試すために来ました。賢きウサギよ、あなたの美徳をみんなに知らせよう」と。こうして釈迦は山を絞って得たエキスで、月の表面にウサギの絵を描いた。
中国の618年〜907年の唐の時代にも月にウサギの話は伝わっており、月の中にカエルも見られる。次の画像は月兎双鵲八花鏡(げっとそうじゃくはっかきょう)という唐の銅鏡。
700年代前半の唐。
中国ではヒキガエルを月の精と考える。捜神記(そうじんき)という300年代の中国の小説集には、月に住むヒキガエルの話がある。
「月の精」
羿(げい”弓の名人”)は西王母(せいおうぼ)から不死の仙薬をもらったが、妻の嫦娥(じょうが)がそれを盗んで月へ逃げようとした。いざ逃げ出そうというときに、嫦娥が有黄に吉凶を占ってもらうと、有黄は筮竹(ぜいちく”50本の竹ひごのようなもの”)を数えて、 「吉だ。軽やかな帰妹(きまい)、ただ一人西方へ旅立とうとしている。途中で天が真っ暗になっても、 恐れたり驚いたりしてはならぬ。やがては大いに栄えるであろう」と言った。 こうして嫦娥は、月に身を寄せたのであった。これが蟾蠩(せんじょ”ヒキガエル”)である。
奈良県の中宮寺にある622年の天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)という刺繍遺品には、左上に月にウサギが見られる。
1428年頃から1521年までメキシコ中央部に栄えたアステカでは、ウサギは狩猟の神ミシュコアトルとも同一視された。次の画像は1500年代のアステカの月の中のウサギで、この頃スペインに征服される。その植民地時代のフィレンツェ絵文書という手書きの写本より。
インドのジャータカでは、ウサギが火の中に飛び込み、最終的に月に描かれるという話だったが、アステカでも類似の話が見られる。次の文章はフィレンツェ文書と太陽の伝説をもとに再現した話の要約。
「五番目の太陽の創造」
大地と人間、そして食物と飲物を創造した後、神々はテオティワカンに集まり、暗闇のなかで、 世を照らす次の太陽には誰がなるべきかを相談した。するとテクシステカトルという傲慢な神が進みでた。ほかの神々はもう一人の候補として、病を患っている謙虚な神、ナナワツィンを選んだ。
供物を燃やす薪(まき)が準備され、テクシステカトルとナナワツィンが断食と苦行を行なう丘がつくられた。この二つの丘が、今の太陽と月のピラミッドなのである。
四日間の苦行が終わり真夜中になると、神々は二人に服を着せ、神々は火をとりかこんだ。火は四日間燃え続けていただけに、すさまじい熱さになっていた。神々は火の両側に立つと、テクシステカトルを呼び、炎のなかへ飛び込むように命じた。それを聞いて、テクシステカトルは火のほうへ走っていきかけたが、燃えさかる炎を前にすると、とたんに足がすくんでしまった。そこで彼はもう一度やり直したが、やはり足がすくんでしまった。四回も試したが、何度やっても同じことであった。とうとう神々はナナワツィンを呼んだ。 すると、彼はあっという間に走っていって火のなかへ飛び込んでしまったのだった。彼は少しも恐くはなかった。途中で止まることもなかった。後ずさりもせず、振り返りもせず、あっという間に火のなかへ飛び込んでしまった。そうして彼は燃えた。
ナナワツィンの勇敢な最期を見とどけたテクシステカトルは、ついに腹を決め、自らも炎に身を投げて焼き死んだ。
こうしてナナワツィンとテクシステカトルがいったん焼け死ぬと、神々は彼らが再び現われるのをじっと待った。東の方角を見つめているとナナワツィンが姿を現わした。それはもう以前の貧弱な、みすぼらしい彼ではなかった。ナナワツィンは太陽神トナティウとなって蘇り、四方へ太陽光線を放った。そうして現われた太陽は、燃えるように赤く、光で目がくらみ、誰もその顔を見ることができなかった。
その直後、テクシステカトルも東の空に昇り、トナティウと同じように輝きはじめた。二人の輝き方があまり似ているので、神々もこれでは世界が明るくなりすぎるのではないかと思った。 そこで一柱の神が走りでて、テクシステカトルの顔にウサギを一匹投げつけた。すると傷ついた月の輝きは太陽よりも弱まり、満月にはウサギの姿が見えるようになった。
南部アフリカのコイコイ人にも、月とウサギに関する神話がある。ただ物語は似ていない。
人が死ぬようになったのは、他の多くのアフリカの伝説と同じように、伝達者の神話によって説明されている。月は野ウサギに、人間は永遠に死なないというメッセージを託したと言われている。野ウサギが混乱して人間に、彼らは蘇らないという情報を伝えたとき、月は非常に怒り、野ウサギの唇を強力な一撃で引き裂いた。
インド、中国、日本だけでの広がりであれば仏教の普及とともにと考えられる。これがメキシコまで広がっているとなると、アステカ文明もアジアからの宗教の影響を受けているということになる。
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参考文献
マヤ・アステカ神話宗教事典 図説 / メアリ・ミラー
捜神記 / 干 宝
■1429年
琉球王国と首里城
尚巴志(しょうはし)が琉球王国を成立させ、首里城を王家の居城とした。
首里城に見られる石垣は復元されたものだが、切込み接ぎの石積みが見られる。
沖縄の北谷(ちゃたん)の海底に沈んでいるピラミッド複合施設には、長さ20mの2体の蛇の石像がある。
沖縄の石板とハジチ
沖縄県の北谷町(ちゃたんちょう)より出土の石板(沖縄県立博物館)にも、渦模様のシンボルが描かれている。
沖縄では明治の中頃までハジチという入れ墨の習慣があり、そこにも渦模様や十字が見られる。
台湾のパイワン族
沖縄に近い台湾にも、2匹の蛇のシンボルが見られる。台湾南部に住むパイワン族は、台湾原住民の17.7%にあたる。
パイワン族は世襲貴族制で、貴族、準貴族、平民の三階級からなる。貴族の頭目家は支配権を持ち、そのシンボルは百歩蛇(ひゃっぽだ)という蛇。家紋として人体像、家屋の入り口、柱、軒に彫刻し、衣服に刺繍してきた。
このパイワン族の創世記は、太陽と百歩蛇(ひゃっぽだ)という蛇にまつわるもの。この物語は複数存在するが、下記はその一例。
「昔、太陽はツァカパウクヌ山の頂に赤・白の卵を一個ずつ生みおとし、百歩蛇のブーロンに、それを保護するよう命じた。そこで百歩蛇はこの卵の孵化(ふか)につとめ、その結果やがてこの二個の卵から男女二神が生まれた。この二神の後裔(こうえい)がパイワン族の貴族の祖先となった。平民の祖先はリーライと呼ばれる青蛇から孵化したもの。パイワン族の服飾や芸術彫刻品のなかに、多くの蛇模様が見られるのはまさにこの為である。」(高淵源著、台湾高山族、1977年2月刊より要約)
このパイワン族の祭祀用土器の浮き彫りに、渦巻き模様の2匹の百歩蛇(ひゃっぽだ)の浮き彫りが見られる。
次の画像左側の木彫板では頭に2匹の百歩蛇が見られ、両手を上げ手のひらを見せている。これも共通のシンボルポーズでタニトや女神像に見られた。右の木彫板では2匹の百歩蛇の上に祖先の人面が刻まれている。その百歩蛇の体には、ジグザグ模様で菱形が描かれている。
下の画像はタニト、両手を上げるポーズ、十字のシンボル。
またパイワン族の針磨きという木彫の渦巻き部分にもジグザグ模様が見られ、上部先端には十字も見られる。トグロの中心部には三角紋を頭につけた祖先神の顔の彫刻。つまりこれに見られるジグザグ模様や菱形模様、十字、先端に見られる五角形は蛇神を表し、それは無を表す。
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参考文献
蛇 日本の蛇信仰 / 吉野裕子
■1653年
インドのタージ・マハル
タージ・マハルにも黄金比と渦模様、切込み接ぎの石積みが見られる。
タージ・マハルのメインの敷地は3つの黄金比を並べた大きさとなっており、建物や道は黄金比の比率の配置となっている。
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの皇妃(こうひ)ムムターズ・マハル(1595年〜1631年)の肖像画にも、黄金比の渦模様が見られる。
この皇妃(こうひ)ムムターズ・マハルの夫で、ムガル帝国の第5代君主シャー・ジャハーンの絵には光背が見られる。
■まとめ
ここまで見てきたシンボル、その年代、場所を見てみると、宗教や信仰は出どころが一つで、そこから各地で発展してきたということが浮かび上がってくる。アフリカ、アジア、南北アメリカ、オーストラリアなど、ほぼあらゆる民族が類似の創造神話を持ってるということは、その土地に着いた時点ですでに同じ基本形となる神話を持っていたと考えられる。後から広まったとしても、世界中でそれが同じように採用される可能性は低いだろう。ただ後から出来上がった神話やシンボルが部分的に広がることはあった。
この観点では宗教の発展の道筋は2つある。出アフリカの時点で共通シンボルがいくつか出来上がっており、それを伴って紀元前5万年頃にイランからオーストラリアへ向かう流れと、紀元前4万年以降にヨーロッパ、東アジア、南北アメリカへ向かう流れ。
これで共通シンボルを分類すると、次のように共通シンボルA群はアフリカ時点で出来上がっていて、世界各地に広がる。そして年代を経るごとに各地で新たなシンボルや神話が生まれ、混ざり合い発展していく。
紀元前7万年頃、出アフリカの時点
○下記は共通シンボルA群
・2匹の蛇、虹蛇(ベナンなど)
・宇宙の創造神話(マサイ族など)
・宇宙卵(ドゴン族など)
・洪水神話(ムブティ族など)
・粘土から人間を作り出す物語(ムブティ族など)
・天地創造神話(ケニアのアバルイヤ人など)
・アダムとイブ(西アフリカのアシャンティ人)
・相撲やレスリング(カメルーンではドゥアラ相撲)
・ドルメン(アルジェリア)
・あらゆるものに霊魂や神は宿るというアニミズム
・樹木信仰
紀元前5万年頃、オーストラリアへ
○共通シンボルA群
紀元前4万年頃、日本方面へ
・宇宙の創造神話
・アニミズム
・樹木信仰
・女神像
紀元前2万年頃以降、ヨーロッパ、東アジア、南北アメリカへ
・様々なシンボル(紀元前2万年頃のヨーロッパの洞窟壁画では、渦模様、ジグザグ模様、蛇型の線、三日月型の半円、はしご、手のひら)
・宇宙の創造神話
・アニミズム
・樹木信仰
・女神像
・相撲やレスリング
紀元前1万年頃、トルコのギョベクリ・テペ
・様々なシンボル(2匹の蛇、黄金比の渦模様、T字、H字、ハンドバック、鷲(わし)、サソリ、イノシシ、トカゲなど)
紀元前5000年頃以降、エジプト、ヨーロッパ、東アジア、南北アメリカへ
○共通シンボルA群
・様々なシンボル(黄金比の渦模様、T字、H字、ハンドバック、イノシシ、龍、虎、有翼円盤など)
・黄金比を使用した建築
・切込み接ぎの石積み
・ピラミッド
・神が赤子時代に何かに入れられて川に流された物語
・獅子像
・月とウサギの物語
紀元前7万年頃の出アフリカの時点で、宇宙創造神話やアニミズムが存在していたことなど、その時代すでに精神的に優れ、仏教などでいう悟った人物がいたと言える。ここまで見てきたように、全ての宗教や信仰、シャーマニズムは出どころが同じで、出アフリカから広がったという結論。それが各地で混ざりあったりして、独自の名称や物語に発展していった。そしてすべての宗教の神は無である「意識」を意味しており、それは人間の意識のことでもある。
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