■80年
ローマのコロッセオ
イタリアのローマのコロッセオは、約5万人収容の円形闘技場。
コロッセオにも切込み接ぎの石積みが見られ、地上・地下両方にある。ローマ神話に登場するローマ建国者ロームルスも、無という結論だった。
ローマン・コンクリート
コロッセオの建築材料はローマン・コンクリートと言われる。1900年代のコンクリート寿命は約50年から100年程度の中、ローマン・コンクリートは2000年以上の耐久性がある。
ローマン・コンクリートが使用されている建物は次の通り。カラカラ浴場、マクセンティウスのバシリカ、トラヤヌスの市場、ローマ水道の水道橋や導水渠(どうすいきょ)、分水施設(カステルム・アクアエ)、アウレリアヌス城壁(ローマ市街地を取り囲む防御壁)、パンテオン。これらの中には切込み接ぎの石積みが見られるものもある。
パンテオンもサバジオスの浮き彫りと同じ建築デザイン。
ティトゥス浴場
80年、第10代ローマ皇帝ティトゥスの時代のティトゥス浴場。ここも2つの黄金比の比率でできている。建設がコロッセオと同年。
巨石建造物とローマン•コンクリート
ローマン・コンクリートの技術は後に失われていったが、1900年代のコンクリートの建築は、型枠の中に材料を流し込み固めて使用する。
コロッセオには切込み接ぎの石積みも見られたが、この石積みとローマン・コンクリートも他の宗教のシンボルと同様に各地に広がっていた技術の可能性が見えてくる。例えばエジプトのピラミッドも同じ技術で作られた可能性があり、つまり遠い場所から人々が石を引きずって運んで来たのではなく、ピラミッドの上で型枠を作り、そこに材料を流し込んで固めたということ。ピラミッドでも切込み接ぎの石積みが見られた。
またちょうどこの時代、ローマ帝国によって築かれたとされる中東・西アジアのレバノンの遺跡バールベックには、重さ1200t〜2000tと見積もられている巨石がある。これもローマン・コンクリートで作られたと考えれば、どうやって人間が運んで来たのかという疑問はなくなる。またここにあるバッカス神殿なども同様の方法で作られた可能性も見えてくる。
この時代までに見られた各地の巨石建造物、この後数百年間に見られる巨石建造物は、このローマン・コンクリートと同様の技術で作られた可能性が見えてくる。それと併用して手作業でも行われた。
■90年頃
ローマ帝国の像
ローマ帝国の第11代皇帝ドミティアヌスの時代に作られたアイオーンの像。両足の左右に2匹の蛇が見られる。
アイオーンと同一神は、1匹の蛇が巻きついた杖を持つローマ神話のメルクリウス(マーキュリー)、2匹の蛇の杖を持つギリシャ神話のヘルメスとエジプトのトート神が融合した錬金術師ヘルメス・トリスメギストスなど。
■192年
ベトナムの象牙の塔
ベトナムのチャンパ王国(192年-1832年)の象牙の塔(Dương Long)にも、切込み接(は)ぎの石積みがある。
■212年
ローマのカラカラ浴場の黄金比
カラカラ浴場は、212年から216年にかけてカラカラ帝の治世に造営された。
建物は長さ225m、幅185m、高さ38.5mほど。2000から3000の浴槽を設置できた。カラカラ浴場もローマン・コンクリートで建てられ、黄金比の比率で設計されている。
カラカラ浴場は古代ローマのセントラルヒーティングシステム「ハイポコースト」によって加熱されていた。これは床面を柱で持ち上げ空間を作り、炉(ろ)からの熱気と煙を床下や壁に送り込み、屋根付近の送管で排気する。現代のセントラルヒーティングの先駆け。
■275年
ローマのアウレリアヌス城壁
アウレリアヌス城壁(じょうへき)は271年から275年に、ローマ皇帝アウレリアヌスとプロブスの治世にローマに建設された。全周19km。29.6mごとに塔がある。壁はローマン・コンクリートをレンガで覆う形。この城壁のサン・セバスティアーノ門やティブルティーナ門にも、切込み接ぎの石積みが見られる。
前方後円墳の誕生
250年から600年頃、日本に前方後円墳が現れ始める。全国に4800基以上ある。大阪府の仁徳天皇陵古墳は、全長約486mで日本最大。
この古墳をよく見ると、台形の部分に腕のような造り出しがある。これと同じ形が、共通シンボルのタニト。また前方後円墳が段々に盛り上がっているのも、タニトの枠に見られるシンボル。
京都府の恵解山(いげのやま)古墳にも造り出しが見られる。
次の左の広島県の三ツ城(みつじょう)古墳にも造り出しが見られる。右の奈良県の箸墓(はしはか)古墳のように造り出しがない場合や、片方だけの時もある。
四角形の前方後方墳も日本に200基以上存在する。福島県の大安場1号墳は全長約83m。
静岡県の前方後方墳の小銚子塚(こちょうしづか)古墳は全長46mで、前方後円墳と共に並ぶ。
この前方後方墳の形も、太陽と三日月があるタニトに見られる。また前方後方墳も段々になっている。つまりすべて無を表すシンボル。
前方後円墳の内部には巨石の石室がある。この石室はドルメンのように巨石を天井石として置いている。
円墳も古墳時代に作られている。
円や二重丸も共通のシンボルとして、エジプトの装飾品などで見られた。
同時代、八角形の八角墳(はっかくふん)も作られている。
八角形のシンボルも、紀元前1120年頃のバビロニアの石の左上に星の形で見られた。
数は少ないながら六角墳も作られている。
六角形のシンボルは、インドのインダス文明の出土品に見られる。各地の女神が両手で蛇などを持つポーズが、次のインドの出土品にも見られる。その上下に六芒星とゾウが彫刻されていて、六角形、六芒星も共通のシンボルということ。
他にも帆立貝式(ほたてがいしき)古墳、双円墳(そうえんふん)、双方中円墳、双方中方墳なども見られる。これらも今まで見てきたシンボルの組み合わせで作られている。
このように前方後円墳なども無を表したシンボルということ。
埴輪
長野県の森将軍塚古墳は全長100メートルの前方後円墳で、埴輪(はにわ)も見られる。埴輪とは埴(はに)で作った円筒、人形、動物などの像で、墓の周囲に埋められている。
次の左の画像の森将軍塚古墳の合子(ごうす)形埴輪の側面は、ジグザグ模様で囲まれていて、そのため三角形の穴が無数に空いている。ジグザグ模様はトルコのギョベクリ・テペの石柱にも見られた。つまりこの埴輪も共通シンボルでデザインされている。
埴輪には色々なデザインがある。
銅鏡も日本全国の古墳より出土している。下の画像は群馬県の蟹沢(かにさわ)古墳の鏡で、これにも周囲にジグザグ模様が見られる。
このように前方後円墳はタニトに類似のデザインで、ドルメンである巨石の石室があり、埴輪のジグザグ模様や銅鏡が見られ、無のシンボルで作られている。
土師氏
土師氏(はじうじ)は出雲(島根県辺り)から大和(奈良県)までの、400年頃から550年までの古墳造営や葬送(そうそう)儀礼に関った氏族とされている。土師氏(はじうじ)の祖は野見宿禰(のみのすくね)で、彼は垂仁(すいにん)天皇の命により、当麻蹴速(たいまのけはや)と角力(“すもう”=相撲)をとり、それに勝ち、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、埴輪も発明したと伝えられている。
野見宿禰(のみのすくね)や土師氏(はじうじ)の名が出てくる日本書紀の創成神話では、「無」を鶏(にわとり)の卵のような混沌と表していて、各国の創成神話と類似していた。
古墳の石室の石材を加工する際に使われるノミという道具は、野見宿禰(のみのすくね)の野見と関連があるとされている。
巨石は修羅(しゅら)と呼ばれるソリを使って運んでいる絵があるが、修羅は大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳(みつづかこふん)から見つかっている。
■315年
コンスタンティヌスの凱旋門
コンスタンティヌスの凱旋門はイタリアのローマにあり、コロッセオの隣に位置している。その大きさは黄金比2つ分となっている。
■395年
東ローマ帝国の国章の双頭の鷲
ローマ帝国が、西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に分裂。
東ローマ帝国の国章は双頭(そうとう)の鷲(わし)となった。双頭の鷲は、紀元前3000年のイランのジーロフト文化より出土しており、共通のシンボルだった。
■400年頃
ボリビアの都市ティワナクやプマ・プンク
南米ボリビアのチチカカ湖周辺にある古代都市にも、シンボルが見られる。
ティワナクの切込み接ぎの石積み。
ティワナクの隣にプマ・プンクがあり、次の左の画像のようなH型の巨石と、右側のような段々の型取りがある。
このH型の石も共通のシンボルで、トルコのギョベクリ・テペの石柱で見られた。
ギョベクリ・テペの違う石柱にも「H」が見られる。
段々の型取りは、メソポタミアのシンボル表でも見られる。
三日月や太陽のシンボルがあるタニトの周りも、段々の装飾になっている。
プマプンクの巨石には十字と、中央に小さく菱形のデザインも見られる。
ティワナクには、角ばった菱形のシンボルも見られる。
角ばった菱形を半分にした階段ピラミッドのシンボルは、紀元前3000年頃のイランのジーロフト文化の出土品にも見られた。
ここでは石の中を丸や四角でくり抜いたものも見られる。
これを1900年代のコンクリート技術で作ると、型枠に材料を流し込む前に型枠の中にセパレーターを入れておくと、固まった時そこが穴になる。
こういった理由から、切込み接ぎの石積みが見られる南米にも、ローマン・コンクリートのような技術は伝わっていた可能性が考えられる。
ティワナクの太陽の門には、インカ帝国の神ビラコチャが見られる。ビラコチャは文明の創造者で、大洪水によりチチカカ湖周辺の人々を滅ぼした神。その際マンコ・カパックとママ・オクリョの2人を、文明を世界に広げるため助け残した。ビラコチャは人々に農業、灌漑水路造り、トウモロコシの作り方、家畜の飼い方も教える。また行く先々でたくさんの病人を治した医師でもあった。
マンコ・カパックはインカ神話でクスコ王国の初代国王。後の肖像画には獅子、三日月の角を持つ牛、渦巻き模様の耳飾り、16芒星のある杖、鳥が描かれており、全て共通シンボルと合致する。マンコ・カパックの父インティは太陽と虹の神ともいわれる。こういったことからも、インカ神話も無を表したシンボルでできている。
インドのエローラ石窟群
インドにあるエローラ石窟群は、400年から1000年の間に造られた。仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の石窟(せっくつ)寺院などがある。34の石窟が垂直な崖に掘られている。
彫刻されている仏陀。
カイラーサナータ寺院の切込み接ぎの石畳。
このエローラ石窟群の16花弁、8花弁のシンボル。
獅子とゾウも共通のシンボル。
エローラ石窟群。
莫高窟(ばっこうくつ)
中国の莫高窟(ばっこうくつ)は600ほどの洞窟群。断崖(だんがい)に南北1600mに渡って掘られ、355年に作られ始めたとされる。その中に2400余りの仏像が安置されている。ここには岩山をくり抜いた中に巨大な仏陀の石像がある。下の左の龍門石窟の仏像は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)と言い、奈良の大仏と同じ。これも無を表すという結論だった。右は雲崗石窟(うんこうせっくつ)の仏像。
雲崗石窟(うんこうせっくつ)は如来像で、2つある像の頭の後ろには光背のシンボルが見られる。また小さい像の手のひらを見せるシンボルポーズは、タニトの浮き彫り、仏陀の浮き彫り、インドのシヴァにも見られる。
紀元前1800年頃のシリアの同筒印章図(古代オリエント博物館蔵)の左上にも、手のシンボルが見られる。
神社の狛犬と世界中の獅子像
紀元前710年頃のアッシリアの守護神ラマッソスは、三重冠をかぶっている。
三重冠も共通のシンボルとしてメソポタミアで見られた。
イランのペルセポリスでは、三重冠のラマッソスが2体で入り口に立っている。
神社の狛犬、沖縄のシーサー、韓国のヘテ、中国の紫禁城の獅子像も2体1組として見られる。
トルコのネムルト山にも2体のライオン像がある。神像には、ゼウス-オロマズデス(ゼウスとアフラ・マズダが同一視された神)、アポロ-ミトラス、ヘラクレス、テュケなど。
紀元前1450年頃のギリシャのミケーネ文明にも、2匹の獅子が描かれた獅子門と切込み接ぎの石積みが見られる。
インド南東の島国スリランカのポロンナルワの獅子(ライオン)像。
インドネシアのジャワ島のボロブドゥル寺院。獅子像と切込み接ぎの石積み。
カンボジアとタイの国境付近にあるプレアヴィヒア寺院の獅子像。
カンボジアにあるアンコール・ワットの獅子像。
■477年頃
スリランカのヤーパフアとシーギリア
スリランカのヤーパフアには2体の獅子像、切込み接ぎの石積み、巨石が見られる。
シーギリアロックには、ライオン像の前足、巨大な巨石が存在する。
■500年頃
熊本県のチブサン古墳
熊本県のチブサン古墳は前方後円墳。後円部分に石室があり、絵が描かれている。
ここには7つの丸、二重丸、菱形模様が見られる。これらは共通のシンボルだった。
ここに見られる3本の角のある両手を上げた人物は、タニトと類似している。下の左のタニトも両手を上げている。右側はタニトと両手の手のひらを見せている。
十字も共通のシンボルだったが、下の浮き彫りの人物は手のひらを見せながら両手を上げている。つまりチブサン古墳の人物は、手のひらを見せながら両手を上げる共通のシンボルポーズをしている。
両手を上げるポーズは次の左の画像のバビロニアのイシュタルを表す女神像や、右側の紀元前1800年頃のイシュタルと壺でも見られる。
7つ星はメソポタミアの三日月や有翼円盤がある円筒印章や、ライオンが持つシンボル表の右上に見られた。
菱形模様はギョベクリ・テペや仏陀の浮き彫りに見られた。
エジプトの装飾品の二重丸。
このようにチブサン古墳も共通のシンボルで作られているという結論。
熊本県の井寺古墳
熊本県の井寺古墳(いでらこふん)は円墳。内部に切込み接ぎの石積みがある。500年頃の築造と推定され、チブサン古墳とは年代も距離も近い。
熊本県の大戸鼻(おおとはな)古墳群
大戸鼻(おおとはな)古墳群も500年頃で、チブサン古墳や井寺古墳と年代も距離も近い。南一号古墳はドルメン。
南2号古墳の石室の内部に描かれている円の周辺には、ジグザグ模様が描かれている。
■540年頃
エチオピアのアクスムとラリベラ
100年頃から940年頃までエチオピア東北部では、アクスム王国が栄えた。
アクスムにあるラムハイ王と家族の地下墓の入り口にも、切込み接ぎの石積みが見られる。
この切込み接ぎの石積みがある上部に、長方形の段々の彫刻が見られる。これはタニトの段々と同じデザイン。
アクスムにはオベリスクがあり、ここでも段々の彫刻。
このオベリスクは重さ500トンもある巨石。
カレブ王の地下墳墓の切込み接ぎの石積み。
アクスムの南の街ラリベラ。ここには石をくり貫いて作ったエチオピア正教会の教会堂群がある。ギオルギス教会の十字の形もタニトに見られる。
タニトと十字。
この建物の扉周りデザインがアクスムやタニトの段々と同じ。
■574年頃
飛鳥寺
創建時の飛鳥寺の講堂はちょうど黄金比の形。つまり仏教寺院も無を表した建物。
飛鳥寺の講堂の形は黄金比。
講堂の外側の礎石(そせき)に合わせて黄金比を置くと、その中にできる小さな黄金比の比率で礎石が並んでいる。
内側の礎石の形に合わせて黄金比を置く。すると、その中にできる小さな黄金比の比率に、外側と内側の礎石が幅の距離が決められている。
■590年頃
イラン西部の遺跡ターク・イ・ブスタン
イランのササン朝ペルシャ時代の遺跡ターク・イ・ブスタンの浮き彫り。
石窟内の中央の人物の頭頂には、三日月と太陽。手には2本のヒモがついた王冠。3人とも太陽が頭頂にある。
この石窟横に彫刻された植物の曲線は黄金比。石窟上部には三日月のシンボル。
■593年頃
チベット初の統一王国
ソンツェン・ガンポがチベット初の統一王国の吐蕃(とばん)を樹立し、チベットに初めて仏教を導入したとされる。チベット仏教の14世紀の王統明鏡史(おうとうめいきょうし)では、創成神話として「無」をただ際限のない空虚な空間と表現している。そこに十方(じっぽう)から風が起こり交錯(こうさく)しあって、十字の風といわれる風輪ができ、様々なものができていく。
曼荼羅(マンダラ)
チベットやインド含め、大乗仏教の中の密教では曼荼羅(まんだら)が描かれている。曼荼羅は本来「本質を得る」という意味。これは最高の悟りを得ることであり、この真理を表現したのが曼荼羅で、円輪(えんりん)のように過不足なく充実した境地であるため、円輪具足(えんりんぐそく)とも訳される。曼荼羅には仏、如来、菩薩(ぼさつ)、守護尊(しゅごそん)などを体系的に配列して描いている。また多くの曼荼羅は四角と円で表され、四つのT字型の門が描かれている。T字も共通シンボルだった。この曼荼羅が表しているのも無ということ。
須弥山(しゅみせん)
チベット仏教の創成神話では、空虚な空間から世界ができていく様子が述べられている。その中にできる金輪(こんりん)の中央に、様々な宝石からなる須弥山(しゅみせん)が水車の車軸のように自然にできあがったとある。次の図はその説明を表したもの。
この須弥山を真上から見た模様は、曼荼羅(マンダラ)と同じ構図となっている。
曼荼羅(マンダラ)は無を表したシンボルという結論だった。つまり須弥山も無を表している。仏教寺院では仏像等を置くために一段高く設けられた場所のことを須弥壇(しゅみだん)というが、須弥山に由来する。その上に置かれた仏像は無という結論だったので、つまり像も台も全てが無をシンボル的に表したもの。
カイラス山
チベット高原に位置するカイラス山の標高は6656m。
この山をヒンドゥー教ではリンガ(男根)として崇拝し、チベット仏教では須弥山(しゅみせん)と同一視される聖地。リンガ(男根)はシヴァ神の象徴で、どちらも無を表すという結論だった。次の画像ではリンガのシンボルと共に、片手をあげるポーズや三日月の共通シンボルも見られる。
■600年頃
イースター島
モアイ像があるイースター島にも、切込み接ぎの石積みが見られる。
イギリスの大英博物館に展示されているイースター島のモアイ像。その胸に黄金比の渦模様。このモアイ像は1000年〜1200年の像とされている。
地中にはモアイの胴体が埋もれていた。重量100トンほど。
イースター島にやってきた人々は、ここでゼロから新たに信仰を作り出したのではなく、すでに違う場所で持っていた信仰があり、それがさらに独自に変化していったということになる。そういったことが、出アフリカ後、各地で起こったと考えられる。
茨城県大平古墳群
600年頃の茨城県大平(おおだいら)古墳群の中の、最大の前方後円墳である黄金塚(こがねづか)古墳からは「乳飲み児を抱く女性埴輪」が出土している。
古代より見られる各国の授乳する女神像と共通している。
子供に授乳している女神像のシンボルは、サバジオスの手の下部に見られた。
この茨城県ひたちなか市の前方後円墳の虎塚古墳(とらづかこふん)の装飾壁画にも、上部にはジグザグ模様、正面には2つの二重丸のシンボルが見られる。次の画像は実物大の模型。
虎塚古墳(とらづかこふん)からは武具・馬具の類も出土している。
鬼瓦
神社仏閣の屋根の鬼瓦(おにがわら)にも黄金比の渦模様が見られる。
600年〜800年までの鬼瓦は黄金比の渦模様。
600年代後半、兵庫県の播磨千本。
600年代後半、大阪府の新堂廃寺。
600年代後半、奈良県の地光寺。
600年代後半、奈良県の地光寺。
700〜800年、東京都の武蔵国分寺。
次の鬼瓦の輪郭にジグザグ模様も見られる。
700年代中頃、大安寺。
同じ時代、朝鮮半島でも黄金比がある鬼瓦が見られる。次の2つの鬼瓦の周囲には、二重丸のシンボルも見られる。
356〜935年、朝鮮半島、統一新羅時代。
600〜800年、韓国の慶州皇龍寺。
900年代のものには黄金比がなかったり、デザイン性も装飾も質の低いものもある。
左から大阪府の四天王寺(960年頃)。奈良県の東大寺法華堂(900年代)。
京都府の鳥羽離宮(1100年代末)。愛知県の社山古窯(1185年頃の平安末期)
兵庫県の報恩寺(1336年頃)。奈良県の長弓寺(1363年)
1400年代の鬼瓦。立体的で作り込まれたものや、黄金比が見られるものもある。
奈良県の法隆寺(1406年)。奈良県の法隆寺(1481年)。
■607年
奈良県の法隆寺
法隆寺は607年に聖徳太子によって創建されたとされる。
法隆寺の若草伽藍(わかくさがらん)の、黄金比の装飾がある軒平瓦(のきひらがわら)。
金堂の階段幅は、2つの黄金比を重ねたときにできる比率。
中門(ちゅうもん)の内側の柱は、下の方が太く、上に行くにしたがって細くなっている。これはエンタシスの柱と呼ばれ、ギリシャのパルテノン神殿でも見られる。
法隆寺の金堂には、釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)、薬師如来像(やくしにょらいぞう)、阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)の3組が安置されている。これらにも黄金比、光背、手のひらを見せる共通シンボルが見られる。
東院伽藍(とういんがらん)の夢殿(ゆめどの)は八角堂。八芒星もシンボルとしてメソポタミアで見られた。
夢殿(ゆめどの)の救世観音(くせかんのん)立像の渦模様も黄金比となっており、その数は膨大。
この救世観音(くせかんのん)や、金堂の釈迦三尊の左右にいる脇侍(きょうじ)の頭上には、三日月と太陽のシンボルが見られる。
法隆寺の五重塔には、侍者像(じしゃぞう)という像があり、馬頭形(ばとうぎょう)、鳥頭形(ちょうとうぎょう)、鼠頭形(そとうぎょう)という3つの像がある。顔がシュメールの爬虫類人に似ているが、細かく見比べるとくちばしや服装のパターンが奈良県の興福寺(こうふくじ)の迦楼羅像(かるらぞう)と同じ。奈良県の興福寺の創建は669年、法隆寺の創建は607年とされ、年代も場所もほぼ同じ。
秦河勝
秦河勝(はたのかわかつ)は聖徳太子の側近として働いたとされる人物。秦河勝が赤子時代に壺の中に入れられ、川に流されて誰かに拾われる話は、他国の神話でも見られる。たとえばモーゼ、ゼウス、ローマのロームルスは無のシンボルという結論だったが、これらも川に流される話に登場し、話が類似している。
・日本神話の秦河勝
欽明(きんめい)天皇の時代、奈良県の大和川(やまとがわ)の上流部の泊瀬川(はせがわ)が洪水になった。そのとき川上から一つの壷が流れ下ってきたのを、三輪神社の鳥居のあたりで拾う者があった。壷の中には玉のように美しい幼児がいた。これは天から降ってきた人だということでさっそく内裏にこのことを報告しておいたところ、その夜の天皇の夢に、「私は秦の始皇帝の再誕である」というお告げがあった。そこでその幼児を内裏に迎え、殿上人として育てることにした。成長するにつれて大変な才能を発揮するようになったために、十五歳になったとき「秦」姓を与えてこれを「ハダ」と読ませ、秦河勝と呼んで重用することになった。
・旧約聖書の出エジプト記のモーセ
エジプトの王はヘブライ人の産婆に、ヘブライ人の男の子は生まれたらすぐに殺し、女の子だけを生かしておくようにと告げた。そんな中、ヘブライ人の若い男女が結婚した。二人ともレビ族の出身で、やがて二人の間に男の子が生まれた。その子は出生後、三ヶ月の間隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、パピルスのかごに乗せてナイル川に流された。たまたま水浴びしていた王女が彼を拾い、探してきたヘブライ人の女性に養育を任せた。やがてその子は大きくなり、養子として正式に王女の屋敷へ引き取られた。水の中から引き出した子だったため、王女はその子をモーセ(ヘブライ語で「引き上げる」)と名づけた。
・アッカド神話のサルゴン
サルゴンを生んだ母親は、秘密裏にサルゴンを籠(かご)もしくは灯心草(とうしんそう)の船に入れて川に流した。運良く灌漑(かんがい)者アッキに拾われ、庭師として育てられる。やがてイシュタルに愛され、覇道(はどう)を歩み、ディルムンを征服した。
・ローマ神話のロームルス(王政ローマ建国の初代王)
神殿に軟禁されたシルウィアと軍神マールスに、双子の子供ロームルスとレムスが生まれる。しかし叔父(おじ)アムーリウスは、王位を継ぎうる双子の子を殺すように兵士に命じる。だが兵士は幼い双子を哀れんで、彼らを籠に入れて密かに川へと流す。ティベリス川の精霊ティベリーヌスは川を流れる双子を救い上げ、川の畔(ほとり)に住む雌狼(めすおおかみ)に預ける。やがて羊飼いファウストゥルスが双子を見つけると、妻アッカ・ラーレンティアと相談して引き取ることにした。彼の妻であるアッカ・ラーレンティアの正体は女神ケレースだった。
・インド神話のマハーバーラター第1巻
ある時、クンティーはドゥルヴァーサス仙を満足させたので、聖仙は彼女に神々を呼び出す呪文を教えた。彼女は好奇心から太陽神を呼び出した。太陽神は彼女に息子を授けたが、彼女は人々の目を恐れ、生まれた子を川に投じた。その子は御者(ぎょしゃ)に拾われて育てられた。それが勇士カルナである。
・ギリシャ神話のペルセウス
ゼウスが黄金の雨に身を変えて忍び込み、ダナエーはペルセウスを産んだ。これを知った夫でアルゴス王のアクリシオスは、娘とその子を手にかけることができず、二人を箱に閉じこめて川に流した。ダナエー親子はセリーポス島に流れ着き、漁師ディクテュスによって救出された。
・ギリシア神話のアドニス(これは川に流された話ではないが類似した話)
神々は、ミュラーをミルラ(没薬)の木に変えた。やがて、その木に猪(いのしし)がぶつかり、木は裂け、その中からアドニスが生まれた。そのアドニスにアプロディーテーが恋をした。やがてアプロディーテーは赤ん坊のアドニスを箱の中に入れると、冥府の女王のペルセポネーの所に預けた。こうしてアドニスはしばらくペルセポネーが養育することになった。
・ギリシア神話のオイディプス(これも川に流された話ではないが類似した話)
テーバイ王ライオスは神託(しんたく)によって、今度新たに生まれた息子が成長すれば、自分の王位と生命に危険があると言われた。そのためライオスは牧者に頼んで殺させようとした。しかし牧者は赤ん坊を殺すのがかわいそうになり、子供の足をくくって、樹木にぶら下げたまま捨てた。その赤ん坊をある百姓が見つけ、自分の主人夫婦の所に連れて行き、そこでオイディプスと名づけ養うこととなった。
このように秦河勝も無を表した人物。秦河勝は猿楽(さるがく)の始祖とされる。猿楽が発展したものが明治以降は、能楽(のうがく)や狂言(きょうげん)となる。
■650年頃
埼玉県の八幡山古墳
八幡山古墳の石室の切込み接ぎ。
■680年
奈良県の薬師寺
南都七大寺のひとつ薬師寺にも黄金比が見られる。
薬師寺の金堂の平面図はちょうど黄金比の大きさ。その中にできる4個目の黄金比の大きさに階段幅が設定されている。
金堂の日光菩薩の光背(こうはい)にも、黄金比の渦模様が見られる。
薬師寺創建当初の700年代の鬼瓦。そこに黄金比の渦模様。
1336年の室町時代から1868年の江戸時代末までの鬼瓦で、黄金比が見られないものもある。
薬師如来の台座に描かれている人物の頭部の装飾は、細かい渦模様となっている。
■681年
奈良県の大野寺
大野寺(おおのでら)は役小角(えん の おづの)が建立したと伝えられている。
ここには、岩壁に弥勒仏立像(みろくぶつりゅうぞう)を線で表した弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)がある。この顔の右側部分と腰部分に、切込み接ぎの彫り込みがある。
■705年
シリアのウマイヤド・モスク
ウマイヤド・モスクは、シリアの首都ダマスカスに建築された現存する世界最古のモスク。ここにも黄金比が見られる。
奈良県明日香村
明日香村の石舞台古墳は700年頃の遺跡。この巨石の石積みもドルメンと同じになっている。
明日香村の岩屋山古墳の切込み接ぎ。
岩屋山古墳の入り口側面の巨石では、上の石の形に合わせて下の石が彫られている。
明日香村のキトラ古墳と高松塚古墳の壁面にも、切込み接ぎの石組みが見られる。
この二つの石室内には中国の神話の四神、玄武(げんぶ)・青龍(せいりゅう)・朱雀(すざく)・白虎(びゃっこ)が描かれている。
玄武の亀と蛇は共通シンボルだった。
龍も共通シンボルだった。
奈良県明日香村にある都塚古墳(みやこづかこふん)は階段ピラミッド。
■710年
奈良県の平城宮
710年に平城京が日本の首都になる。
平城京の中にある平城宮(へいじょうきゅう)にも、黄金比の渦模様の鬼瓦がある。平城宮とは大内裏(だいだいり)のことで、天皇の住まいである内裏(だいり)即ち内廷(ないてい)と、儀式を行う朝堂院(ちょうどういん)などからなる。また平城宮(へいじょうきゅう)東端には東院庭園がおかれ、宴などが催された。
次の鳳凰の鬼瓦にも黄金比がある。つまり鳳凰も共通のシンボル。欧米ではフェニックスという名。
中国神話の四神である朱雀(すざく)も無を表したシンボル。平城京は中国の長安城にも似ており、長安城にも朱雀門がある。その長安は現在は西安と呼ばれ、少なくとも29個のピラミッドが存在していた。
また、平城京の第一次大極殿には、天皇の即位式を行う高御座(たかみくら)が飾られている。この高御座上部の黄金の渦巻きも黄金比。その上には共通シンボルである鳳凰(ほうおう)が乗っている。また高御座は上から見ると八角形になっていて、それもシンボルとしてメソポタミアなどで見られた。
高御座の上には大小の鏡が装飾されている。鏡も無を表すシンボルということは後述している。
■713年
中国の楽山大仏
楽山大仏(らくさんだいぶつ)は高さ60m。岩山を71mもくり抜いた中にある。この大仏の頭の渦模様は黄金比。
■720年
日本書紀と鏡
日本書紀が完成する。
日本書紀の創成神話では「無」を鶏(にわとり)の卵のような混沌と表していた。その時、天地の中に一つの神、国常立尊(くにのとこたちのみこと)が生まれる。
この日本書紀では八咫鏡(やたのかがみ)が登場する。これは天孫降臨(てんそんこうりん)の際、天照大御神(あまてらすおおみかみ)から邇邇芸命(ににぎのみこと)に授けられ、この鏡を天照大御神自身だと思って祀るようにとの神勅(しんちょく)が下されたとある。これは宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)の神勅と呼ばれている。そして八咫鏡(やたのかがみ)は神宮と皇居で保管され、皇居のものは神宮の物の複製とされている。こういったこともあり、日本の神社や神棚でも神鏡として祀るなど鏡を神聖なものとして扱ってきた。
中国や日本の銅鏡にはジグザグ模様や黄金比の渦模様が見られ、共通シンボルで表したものという結論だった。次の銅鏡は方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)と呼ばれ、T字のデザインが4つ見られる。これは曼荼羅(マンダラ)と同じデザイン。曼荼羅も無を表したものという結論だった。つまり銅鏡含め鏡自体が無を表している。
次の前漢の1世紀の時代の方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)には、鏡架(きょうか)という鏡を置く台があり、神社の神鏡と似たデザインとなっている。このように八咫鏡(やたのかがみ)、神鏡、銅鏡、鏡架(きょうか)、鏡も無を表している。
日本庭園
日本書紀には庭園と須弥山(しゅみせん)に関する記事がいくつかみられる。古墳時代の庭園は、古代から仏教世界の中心とされてきた須弥山を表す石の山のまわりに営まれているとされる。600年代前半の推古天皇も宮の南に須弥山と呉橋(くれはし、屋根と欄干”らんかん”付きの橋)のある庭を持っていたこと(日本書紀では「仍りて須弥山の形及び呉橋を南庭に構けと令す」)や、600年代後半の斉明(さいめい)天皇も池の畔(ほとり)に須弥山と呉橋(くれはし)を築いたとされる。こうして日本庭園には、須弥山形式や九山八海(くせんはっかい)を表したものが見られる。この2つは同じもので、どちらも須弥山となる石を中心とし、その周りに8つの山を模した岩が並べられる。
次の山口県の漢陽寺と島根県の万福寺の庭園に見られる山の頂上の岩が須弥山。その周りに8つの岩が置かれる九山八海(くせんはっかい)。
京都の龍源院(りょうげんいん)の龍吟庭(りょうぎんてい)。真ん中の縦に長い岩が須弥山。
曼荼羅(マンダラ)と同じ構図の須弥山は、無を表すという結論だった。つまり日本庭園の須弥山形式や九山八海(くせんはっかい)も無を表したもの。
山伏(やまぶし)、ユダヤ教、天狗の共通点
日本の伝説上の生き物とされる天狗が頭に付けている黒い小さな箱は兜巾(ときん)で、ユダヤ教徒はヒラクティリーという黒い箱を頭に乗せている。中に戒律(ティフリン)が入っている。日本では山中で修行をする修験道の行者の山伏(やまぶし)が兜巾(ときん)を頭につけ法螺貝(ほらがい)を吹くが、ユダヤの祭事ではヒラクティリー(黒い小箱)を頭につけ、ショーファーという羊の角の楽器を吹く。
兜巾(ときん)は天狗(てんぐ)も付けている。
天狗は鼻が高く描かれることが多い。日本書紀や古事記の天孫降臨で登場する猿田彦(サルタヒコ)も天狗の姿。
山伏(やまぶし)、ユダヤ教徒、天狗、これらに共通する額の上の兜巾(ときん)やヒラクティリー。また天狗には羽があるが、これらと共通する像が、90年頃の古代ローマのアイオーンの像。アイオーンにも羽があり、額に蛇が乗っていてヒラクティリーの原型。旧約聖書の『創世記』のアダムとイヴの話では、エデンの園でイヴに知恵の樹の実を食べさせたのは蛇。つまり蛇=知恵で、兜巾(ときん)やヒラクリティーはアイオーンの額の蛇=無、をシンボルとして表している。
アイオーンは長い杖を手にしている。山伏(やまぶし)も金剛杖(こんごうづえ)という長い棒を手にしている。
金剛杖は金剛杵(こんごうしょ)と同じで、執金剛神(しゅこんごうしん)が持っている。金剛杵はアイオーンの胸にも見られ、無の共通シンボルだった。
また烏天狗(からすてんぐ)という鳥の顔をした天狗もいる。これはインド神話のガルダを前身とする仏教の守護神の迦楼羅天(かるらてん)が由来。
これらをまとめると、ユダヤ教徒、山伏(やまぶし)、猿田彦、天狗、烏天狗(からすてんぐ)、迦楼羅天(かるらてん)、ガルダは、全て無の共通シンボルという結論。
■752年
奈良の東大寺
奈良県の東大寺でも共通のシンボルが見られる。創建から2度にわたって焼失し、鎌倉と江戸時代に再建された。
大仏がある金堂は再建されたもので、創建当時と大きさが違う。
金堂の前の左右の敷地は創建当時の大きさとされ、黄金比の大きさとなっている。
東大寺の鬼瓦の額にはジグザグ模様のシンボルも見られる。
奈良の大仏。光背(こうはい)、黄金比の渦模様、手のひらを見せるポーズが見られる。この大仏も無を表すという結論だった。
大仏の頭の渦模様。
奈良の大仏の隣にある虚空蔵菩薩像(こくうぞうぼさつぞう)。ここにも光背(こうはい)、黄金比の渦模様、手のひらを見せるポーズ。
東大寺の金堂の多聞天像(たもんてんぞう)や広目天像(こうもくてんぞう)にも、黄金比の渦模様が見られる。入り口の両側に立ち、黄金比があり、三叉槍(さんさそう)を持つこの像も、共通のシンボルでできている。
大仏殿の前にある金銅八角燈籠(こんどうはっかくとうろう)にも、黄金比が見られる。
奈良の大仏、大日如来、天照大神
鎌倉の大仏は阿弥陀如来(あみだにょらい)で、仏教の五大明王の一角を占める大威徳明王(だいいとくみょうおう)と同一神で、金剛杵(こんごうしょ)も見られる。つまり鎌倉の大仏も、無を表すということであった。
奈良の大仏は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)と言い、密教では大日如来(だいにちにょらい)と同じ。大日如来の化身の不動明王も金剛杵(こんごうしょ)を持っている。つまり鎌倉も奈良も、どちらの大仏も無を表すということ。
大日如来(だいにちにょらい)は一切の諸仏菩薩(しょぶつぼさつ)の本体とされ、天照大神(あまてらすおおみかみ)と同一視される。つまりあらゆる仏教の神は無のことを指す。天照大神は日本神話に登場する神。皇室が神として祭る神道の神。神社としては伊勢神宮が有名。
■759年
奈良県の唐招提寺
唐招提寺(とうしょうだいじ)は、鑑真(がんじん)によって創建されたとされる。
金堂を上から見た平面図はちょうど黄金比の形。その黄金比の中にできる4つ目の小さな黄金比の大きさに、階段幅が設定されている。
この金堂の木組みは複雑な構造になっている。
唐招提寺の金堂の柱も、ギリシャのパルテノン神殿と同じエンタシスの柱。
唐招提寺の鬼瓦の黄金比の渦模様。
黄金比と額のジグザグ模様。
唐招提寺の木造の四天王像。そこにも黄金比の渦模様。
古事記
古事記は712年に40代の天武天皇の命令で、太安万侶(おおのやすまろ)がまとめたとされ、33代の推古天皇までの話が収められている。太安万侶(おおのやすまろ)は日本書紀の編纂にも加わったとされる。
古事記の上巻には天地開闢(てんちかいびゃく)について、次のように記されている。「天と地が初めて現れた時に、高天原(たかあまはら)に成った神の名は、天之御中主(あめのみなかぬし)の神、次に高御産巣日(たかみむすび)の神、次に神産巣日(かみむすび)の神」。
高天原(たかあまはら)とは、天と地の始めに神々が生まれ出る場所としてその名が登場する。つまり天地が現れた時から存在し、神が生まれ出てくる高天原(たかあまはら)とは無のこと。
また古事記ではイザナギとイザナミの国生みの記述があり、天の橋に立ち、矛(ほこ)で混沌をかき混ぜ島をつくる。初めに生んだのが淡路島、次に生んだのが四国、三番目に生んだのが隠岐(おき)、そして九州、壱岐(いき)、対馬(つしま)、佐渡(さど)と生み、ついに本州を生む。この八つの島を大八島国(おおやしまぐに)といい、日本国の異称。
このかき混ぜて大地などを作る類似の創世神話は、オーストラリアのアボリジニーやモンゴルの創成神話でも見られた。
五行思想と四大元素
西アフリカのフラニ族の神話では、始まりのとき巨大な一滴の乳だけがあり、それから創造神ドゥーンダリがやってきて、石を作り出した。石は鉄を作り、鉄は火を作った。火は水を作り、水は空気を作ったとある。マヤ文明のククルカン(グクマッツ)は四元素、即ち火・水・大地・空気(風)を司る。西洋の四大元素説では、この世界の物質は、火・空気(風)・水・土の4つの元素から構成される。古代インドやチベット仏教に出てくる聖なる須弥山(しゅみせん)は、物質を構成する四大元素の地・水・火・風でできた円盤上にそびえ立つ巨大な山とされる。中国では太極(=無)から陰陽、陰陽から五行思想が生まれ、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという思想。
これらをまとめると次のようになる。これらの表現が類似しているのも、出どころが同じだからという結論。
火・水・空気・鉄・石 (西アフリカ)
火・水・空気(風)・大地 (マヤ文明)
火・水・空気(風)・土 (西洋)
火・水・風・地 (チベット仏教)
火・水・木・土・金 (中国の五行思想)
■767年
栃木県の日光東照宮
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は日本全国の東照宮の総本社的存在。ここにも切込み接ぎの石積みや黄金比の渦模様が見られる。
この日光山(にっこうさん)の開山の祖である勝道上人(しょうどうしょうにん)は、735年に栃木県に生まれたとされる。勝道上人が日光山を開くとき、大谷川(だいやがわ)の急流に行く手を阻まれ、神仏に加護を求めた際、深沙王(じんじゃおう)が現れた。深沙王は赤と青の2匹の蛇を放ち、その背から山菅(やますげ)が生え、蛇は大谷川の両岸にからみあって虹のように美しい橋となった。この橋が神橋(しんきょう)で、山菅の蛇橋(じゃばし)とも呼ばれている。
つまり日光にも2匹の蛇、虹、切込み接ぎの石積み、黄金比の渦模様の共通点が見られる。
■780年頃
東南アジア、ジャワ島、ボロブドゥル寺院
ボロブドゥル寺院にも切込み接ぎの石積み、獅子像が見られる。
このボロブドゥル寺院は真上から見ると、曼荼羅(マンダラ)のデザインとなっている。つまりこの寺院自体が無を表している。
インドネシアのセウ寺院、プランバナン寺院群
インドネシアのジャワ島にあるヒンドゥー教のセウ寺院(700年代後期)やプランバナン寺院群(890年頃)は、上空から見ると曼荼羅(マンダラ)の配置となっている。つまりこの寺院全体も無を表している。
セウ寺院。
プランバナン寺院群。
■794年
京都の平安京
桓武天皇により京都の平安京が日本の首都となる。1869年に明治政府が東京に拠点を移すまでの日本の首都。ここにも朱雀大路(すざくおおじ)や朱雀門(すざくもん)がある。
平安京でも平城京と同じく平安宮(へいあんきゅう)と呼ばれる大内裏(だいだいり)に、黄金比の鬼瓦がある。
京都御所の清涼殿の一角獣と獅子の像。
京都御所(ごしょ)は、1392年から1869年まで歴代天皇が居住し儀式・公務を行った場所。
京都御所は京都御苑(ぎょえん)の中にある。この京都御苑の敷地は3つの黄金比を並べた大きさ。一部の道も黄金比の比率によって決められている。御所の中心線も黄金比の線上に位置している。
天皇のシンボル
天皇のシンボルは16枚の花弁がある菊花紋(きっかもん)で、メソポタミアのハンドバックを持つ神の腕の16枚の花弁(はなびら)のシンボルと同じ。
またゾロアスター教のアフラ・マズダの壁画の手には、王冠と笏(しゃく)が見られる。王冠は輪から2本のヒモが垂れ下がっている。王冠と笏(しゃく)は天皇の即位の礼でも見られる。平安時代までの纓(えい)は、左右の肩に垂れ下げるなど二枚で、平安末期からは二枚をまとめて一枚になったとされる。つまり天皇の冠と笏も、無を表した共通シンボル。
■796年
東寺
平安京の正門にあたる羅城門(らじょうもん)の東西に、東寺(とうじ)と西寺(さいじ)という2つの寺院の建立が計画された。空海(弘法大師)が嵯峨(さが)天皇から東寺を与えられたとされ、ここは真言密教の道場となる。
金堂に安置されている薬師如来像にも、黄金比の渦模様が見られる。この薬師如来像は1603年に、仏師(ぶっし)の康正(こうしょう)が作ったとされるもの。
金堂は1486年に一度焼失し、その再建も康正が行ったとされる。
東寺の講堂には、立体曼荼羅と呼ばれる21体の像がある。この講堂は空海により839年に完成したとされ、ここも1486年に一度焼失している。
講堂の金剛宝菩薩座像(こんごうほうぼさつぞう)にも、黄金比の渦模様が見られる。
この立体曼荼羅の中心にいる大日如来(だいにちにょらい)坐像にも、黄金比の渦模様が見られる。
■800年頃
インドのチャンド・バオリの階段井戸
チャンド・バオリは階段総数3500段、階数は13階、深さ約30メートル。ここにも切込み接ぎの石積みが見られる。
チャンド・バオリの無数の三角形型の階段は、階段ピラミッドのシンボルとしてイランのジーロフト文化で見られた。
ポルトガルの聖母ラッパの石窟礼拝堂
ポルトガルのキリスト教会の巨石、切込み接ぎの石積み。
切込み接ぎの石積み。
神聖ローマ帝国とヨーロッパの双頭の鷲
紀元前27年からのローマ帝国の国旗には、1羽の鷲(わし)がデザインが見られた。ローマ帝国の東西分裂後、395年から東ローマ帝国で双頭の鷲が使用された。480年頃滅亡し800年に復興した古代西ローマ帝国という理念の神聖ローマ帝国も、国旗・国章ともに双頭(そうとう)の鷲(わし)を使用し、800年から1806年まで続く。この国はドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在した。
双頭の鷲(わし)はイランのジーロフト文化で見られた。
双頭の鷲は神聖ローマ帝国とハプスブルク家の紋章となり、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ国などにも継承された。ハプスブルク家は政略結婚により20世紀初頭まで、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国などの大公・国王・皇帝の家系となる。1472年にはロシア帝国も、16世紀にはスペインの国章も双頭の鷲(わし)になる。
東ローマ帝国の双頭の鷲は1453年頃の滅亡後、ギリシャ正教会、コンスタンティノープル総主教庁、セルビア、アルバニアなどに継承された。
アフガニスタンのバーミヤン渓谷
バーミヤン渓谷(けいこく)の石仏の高さは、西大仏55m、東大仏38m。ここの石窟の形は、奈良県の大野寺の弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)と同じ。
■890年頃
カンボジアのプレアヴィヒア寺院
プレアヴィヒア寺院はヒンドゥー教寺院。ここにも切込み接ぎの石積み、獅子像がある。
プレアヴィヒア寺院の獅子像。
■944年
タイのパノムルン歴史公園
パノムルン歴史公園にも切込み接ぎの石積みがある。
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