天職、適職を手にした人物の取り組みを目安にすると、日々どれくらいの意識の高さで取り組めば最高の質のものが生まれるのかがわかりやすくなる。意識が高いとは、いつも考えていて、純粋でひた向きで、直感にも恵まれ、深い集中力とその持続力、観察力、実行力が高いとも言える。
天職、適職を手にした人物の生活は多くの場合規則正しく、自分を律して過ごす。他人から見れば努力家と見られることもあるが、本人からすればそうしたほうが良い結果につながり、成長にもつながるのでやりがいを感じている。つまり努力というよりはそうすることが自然で、自主的に、前向きに取り組んでいるので生活も充実する。これは天職、適職に取り組んでいるからこそ出来る行動であって、朝から晩までそれの為に生き、休憩中もそれが頭の片隅にあり、予定のすべてがそれを中心に決定される。
つまり自分が現在取り組んでいる事柄がやがて最高のものへ進化するかどうかは、今現在の取り組み方を観察すればわかる。もし今日1日の大部分の時間を自主的に興味のある事柄に使い、目的を持って取り組み、昨日より何か進歩した部分を感じるのであれば、3年後には独自の表現を持った人物になっている。すでに3年間行っている人であれば実力者となっている。
こういった意識レベルの違いを、職場の例で考えてみる。例えばアルバイトは社員よりも取り組む意識が低い。アルバイトは仕事そのものよりも小遣い稼ぎが主な目的なので、その仕事に割く時間は1日数時間となる。よってバイト中以外の時間に、それについて考えることはほぼない。そして社員はアルバイトとは異なり、1日のほとんどを仕事で占める。ただ多くの場合社員も生活費を稼ぐために働いており、また労働時間も会社が決定しているので自主的というわけではなく、天職、適職の人間からすれば取り組む意識は低い。そして会社の上司など社員より上の立場にある人物は、社員よりも取り組む意識が高いことが多い。よって集中力や観察力があるので社員が気づかない細かな部分にまで目が行き届く。そして社長や創業者は天職、適職であることが多く、生活のすべてを仕事に捧げている。休憩中も帰宅後も休日も仕事について考え、休むことより働くことのほうが楽しい。こういったことは一例だが、当然アルバイトや社員の中にも天職、適職の人間はいる。
貨幣社会の仕組みでは天職、適職に出会う人は少なく、取り組む意識は全体的に低いものとなっている。意識レベルが違うもの同士では、集中力も会話の内容も時間の使い方も異なるので同じグループで働くことは難しくなる。こういった意識レベルの差は、取り組んでいる事柄が自分に合っているのかどうかで生じるものなので、合っていなければ誰でも意識は低くなり、天職であれば自然と意識は高くなる。これらは学校生活の中でも見られ、勉強ができる生徒と言うのは学校が決めた教科がその生徒にあっているというだけであって、テストの点が低い生徒は頭が悪いということではなく、その教科が本人には合っていないだけのこと。テストの点が悪い生徒の中にも美術だけは点数が良かったり、体育だけは良かったりと、生徒それぞれに適した科目がある。そして学校に得意科目がない生徒は、長い学校生活の中で劣等感や無能感を植え付けられ、非積極的な姿勢が習慣化される。
誰でも自分に合ったことをすれば意識が高くなり、行動力にも溢れ、その分野において秀でた才能を発揮することができる。人間は意識の高い状態の取り組みにおいてのみ、質の高い結果を出すことができる。つまり自分の活動の結果を良いものにしたければ天職、適職に取り組む必要があり、多くの場合、趣味として取り組んでいる領域にそのヒントが隠れていることが多い。
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