○自我 [10]

 無心がクセづいてきて、穏やかな心が維持されたとする。ただそれは一時的な心配事の不在かもしれない。やがて何かの危機に直面すると、心を悩ませることがある。


人間が自我に振り回されている間は、他者への攻撃を根絶するのは難しい。「私」というものがある限り自分を優先して守り、評価を高めようとする。自我が嫌な思いをすれば、相手への攻撃が始まる。攻撃の受け取り方によって、それがイジメかどうかが分かれる。イジメがよくないと広めることは良いが、自我への囚われが強い者にとってモラルは表面上の話に過ぎず、現場では自分が相手に勝つことを考える。いじめは中長期的に同じ場所で一緒にいなければいけない時に起こりやすい。そういったことを回避する環境を作った方が、イジメを回避できる。単発的な嫌がらせであれば、あの人には近づかないでおこうという教訓的な出来事になる。


自我が薄まるほど、本気で相手を負かしたいという気持ちや競争心もなくなってくる。勝たなければ意味がない、勝つ必要がある、と考えるのも執着であり自我。それが苦しみにもなる。



競争をしているように見えても、そこに勝ち負けにこだわる思考がなければ、じゃれ合いや楽しみ、適度な運動があるだけ。勝ち負けにこだわり始めると、苦しみと優越感という自我が生まれる。


絶頂期を迎えるということは、やがてそれが去った後の苦しみに直面するということ。もし執着するなら。


毎日無心にならなければならないも一つの執着。形に囚われずリラックスしてただ無心になる。


執着しないことに執着すると本末転倒。


無心が習慣化されても、瞬間的に恐れや苦しみの突発的な思考は起こる。しかし習慣化されているとその思考にすぐ気づき、ただ消えていくのを観察するようになる。


世に出始めた新しいことは批判が起こる。携帯電話もパソコンもインターネットも。批判の裏には恐れや不安、拒絶、過去への執着という思考がある。


物質的なものを追うことに良い悪いはなく、存分に得れば、それが自分を本質的な意味で幸せにしてくれるものではないことに気づける。


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