日本書紀には庭園と須弥山(しゅみせん)に関する記事がいくつかみられる。古墳時代の庭園は、古代から仏教世界の中心とされてきた須弥山を表す石の山のまわりに営まれているとされる。600年代前半の推古天皇も宮の南に須弥山と呉橋(くれはし、屋根と欄干"らんかん"付きの橋)のある庭を持っていたこと(日本書紀では「仍りて須弥山の形及び呉橋を南庭に構けと令す」)や、600年代後半の斉明(さいめい)天皇も池の畔(ほとり)に須弥山と呉橋(くれはし)を築いたとされる。こうして日本庭園には、須弥山形式や九山八海(くせんはっかい)を表したものが見られる。この2つは同じもので、どちらも須弥山となる石を中心とし、その周りに8つの山を模した岩が並べられる。
次の山口県の漢陽寺と島根県の万福寺の庭園に見られる山の頂上の岩が須弥山。その周りに8つの岩が置かれる九山八海(くせんはっかい)。
京都の龍源院(りょうげんいん)の龍吟庭(りょうぎんてい)。真ん中の縦に長い岩が須弥山。
曼荼羅(マンダラ)と同じ構図の須弥山は、無を表すという結論だった。つまり日本庭園の須弥山形式や九山八海(くせんはっかい)も無を表したもの。
0 コメント