中国の陰陽思想では、原初の混沌(カオス)の中から陽の気が天となり、陰の気が地となったとされる。キリスト教の旧約聖書の創世記では、はじめに神は天と地を創造されたとある。つまり無極の無から陰陽の2つの極が生まれた。それは天と地、光と闇、喜びと苦しみ、N極とS極などのこと。人間誰もが多かれ少なかれ欲望を持ち、物事に執着し、何かを得て喜んだり、反対に求め苦しむことを経験する。そのどちらにも振れず、無心になり欲望から離れると苦しみが消え、意識として在り、それが定着すれば解脱するという話だった。つまり一種の体験ゲームであり経験。無が自分の無を経験するには、無の反対の有限なものを作り、それに執着することにより快楽と苦しみが生じ、人間の活動を通じてこれらを経験することによって、自分の無が体験できるという仕組み。
ただこの理解は思考による理解であって、無心である意識が理解するということはなく、ただそれは理由もなく起こっている。つまり宇宙にも生命にも人生にも意味はなく、体験も経験もない。わかりやすく言えば、自分が無心になった時、そこには思考がないので、何かを理解することはできず、目的を持つこともできないのと同じ。目的や理解は思考があるから生じる。
ここまで見てきたように、各地の宗教とは無である意識を表し、その無は人間の意識のことで、宇宙が誕生する前から存在した唯一のもの。この意識は個人のものという分離したものではなく、全てがつながっている。やがて全生命はこの意識へ帰っていく。
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