意識(無)はテレビに例えるとわかりやすい。テレビ本体が「意識」。テレビ画面をつけた時がビッグバン。テレビ画面に映る映画が宇宙で、登場人物が人間。その登場人物もそこに映る世界もテレビ本体の一部であるように、実際の人間も意識である。ただこの登場人物は自分がテレビの中にいることに気づいていない。その画面の中で生まれ、死んで、また生まれてを繰り返しながら、様々な時代の役を演じ、快楽と苦しみを経験し、経験値が増える。実際のテレビ本体には色や形があるが、意識にそれはない。
人生は映画のようなもので、自我が役を演じて経験しているということ。また映像の中で爆弾が爆発してもテレビ本体は傷つかないが、それは意識も同じ。つまりこの世に起きていることは、テレビに映った映像のようにすべて幻想。だから人間は自我という幻想の映画の世界に生きていることに気づき、この世の執着を手放して意識を意識していると、輪廻転生が終わり解脱する。死の際に現世の富、名声、家族、後悔や怒りなど何かに執着心を残していると、それが課題となり克服するため再び転生する。
無心になると脳内には認識するもの、つまり意識だけが残るが、それをインドの哲学者シャンカラ(700〜750年)は教説ウパデーシャ・サーハスリーの中でアートマンと呼び、次のように述べている。
「アートマンは解脱し、輪廻することがない」
「私(アートマン)は実在であり、認識主体である」
「ある灯火を現し出すのに、別の灯火を必要としないように、認識がアートマンの本性であるから、アートマンを認識するのに、アートマンとは別の認識は必要ではない。」
「私(アートマン)は一切万有、清浄であり、悟っており、不生であり、一切に遍満(へんまん)し、不老、不死、不滅である。私は業("ごう"、善悪の行為)の監督者であり、目撃者であり、観察者であり、恒常(こうじょう)であり、属性をもたず、不二("ふに"、2つとないこと)である。私は有でもなく、非有でもなく、両者でもない。絶対にして、吉祥("きちじょう"、よい前兆)なものである。私には夜も昼も黄昏(たそがれ)もない。私は虚空(こくう)すらももたないブラフマンである。」
「それだけで確立したものには、なすべき義務はない。」
「アートマンは内も外も含み、衰微することなく、生・死・老を超越し、私はアートマンであるとすでに知っている者は、何も恐れることがない。これを知ることを明智(めいち)と言い、これを知らないことを無知(むち)としている。」
「すべての人が解脱すれば、世界は消滅する。』
アートマンとしてあることは意識として在ることで、それを知り、アートマンとして在ることが悟りで、解脱することだとシャンカラは述べている。仏教では、ブッダがウダーナヴァルガ(感興"かんきょう"のことば)で、無心と解脱について次のように述べている。
「思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。(中略)聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。」
古代インドの聖典バガヴァッド・ギーターでも、聖バガヴァッド(プルシャ、ブラフマン、=意識=無)は次のように述べている。
「臨終の時、私(聖バガヴァッド)のみを念じて肉体を脱して逝く者は、私の状態に達する。この点に疑いはない。臨終において、人がいかなる状態を念じて肉体を捨てようとも、常にその状態と一体化して、まさにその状態に赴く。それ故、あらゆる時に私を念ぜよ。そして戦え。私に意(こころ)と知性を委(ゆだ)ねれば、疑いなく、まさに私のもとに来るであろう。常修のヨーガに専心し、他に向かわぬ心によって念じつつ、人は神聖なる最高のプルシャに達する。」
古代中国の書物の老子(ろうし)では、無心になって周囲を見渡すと、あらゆるものは道へ帰って行っているのがわかる、という記述がある。道とは無のこと。
「心をできるかぎり空虚にし、しっかりと静かな気持ちを守っていく。すると、万物は、あまねく生成変化しているが、わたしには、それらが道に復帰するさまが見てとれる。そもそも、万物はさかんに生成の活動をしながら、それぞれその根元に復帰するのだ。」
アジアだけでなく古代ギリシャでは、哲学者プラトン(紀元前427年 – 前347年)が著書パイドンで似た内容を述べている。ここでは魂が意識(無)のこと。
「もしも、魂が純粋な姿で肉体から離れたとしよう。その場合、魂は肉体的な要素を少しも引きずっていない。なぜなら、魂は、その生涯においてすすんで肉体と交わることがなく、むしろ、肉体を避け、自分自身へと集中していたからである。このことを魂はいつも練習していたのである。そして、この練習こそは正しく哲学することに他ならず、それは、また、真実に平然と死ぬことを練習することに他ならないのだ。それとも、これは死の練習ではないかね。(中略)それでは、魂が以上のような状態にあれば、それは、自分自身に似たあの目には見えないもの、神的なもの、不死なるもの、賢いもの、の方へと立ち去って行き、ひと度そこに到達すれば、彷徨(ほうこう"彷徨い")や、狂愚(きょうぐ)の振舞いや、恐怖や、狂暴な情欲や、その他の様々な人間的な悪から解放されて、幸福になるのではないか。そして、秘儀を受けた人々について言われているように、残りの時間を真実に神々と共に過ごすのではないか。」
キリスト教の新約聖書のヨハネの手紙1では、次のような表現で述べられている。
「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父(おんちち=神=意識)への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心(みこころ)を行う人は永遠に生き続けます。」
こういった現象の理解は、自分の周囲の出来事からもヒントを得ることができる。意識的に無心になった時に気づけることの一つに、突然思考が起こるということがある。それは過去の記憶からくる。怒り、後悔、苦しみ、楽しかったことなど。反対に未来への恐れなども浮かんでくる。この性質に気づいていないと、その思考に心が奪われ、それに反応して生きる。だから人間は自己中心的な行動をする。つまり突然の思考が感情を生み、その感情は次の思考を生みという連鎖に入る。この過去の記憶の条件付けをヒンドゥー教や仏教などではカルマと言い、運命とも言う。これを知らなければ思考は止まず、欲望を持ち続ける。
多くの人はいつも物や機会を求めているが、それが難しい事柄でない場合、その執着を少し継続すれば、大概の場合それを得る。それが難しい事柄の場合は、長く強い執着が必要となる。つまり執着することにより、望んだものが物質的な形として手元に来る。本を読みたい人のところには、本を読む機会がやって来る。お金が好きな人の所にはお金がやって来る。動物を買いたい人の所には、動物を飼う機会がやって来る。これがこの世の法則と言える。
それと同じく、死ぬときに生への執着が残っていれば再び生まれてくる。生への執着が死ぬまでに滅していれば、生まれ変わらない。それがこれまで見てきた各宗教で述べられていること。
生への執着がなくなれば何もしないというわけではなく、ただ人生でなすべきことが、意識より直感としてやってくる。そしてあとは成り行き任せとなる。生への執着を滅するというのは、命を軽んずるわけではない。
このように、眉間など何か一点や意識そのものに意識を向けると無心になり、欲望が生み出されず、継続すれば執着がなくなり、穏やかになる。死の間際にも意識へ意識を向けていれば、人間の究極の目的である解脱を達成する。
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