何か一点を意識的に観察することによって無心になり、よって無欲の状態になり、それを継続すれば穏やかな状態が維持される。この無心状態で日常の物事を見ることを、内なる目、心の目、つまり心眼で見ている状態と言う。つまり思考がないので、偏見を持たない子供と同じ純粋な目で見ている。よって本質を見極められる。また物作りやスポーツなど、無心で体が勝手に動き、質の高いパフォーマンスを発揮する高い集中状態が継続することをゾーンやフローというが、その時もこの心眼で見ている。こういう状態の時は自分の心の声と会話している状態になり、高い集中状態で意識は内面を見ていて、次の動きが容易に頭に浮かぶ。時には周囲がスローモーションで動いているように見えたりもする。つまり両目で50%見て、心眼で50%見ているような割合。思考しなければ体は動かないのではなく、無思考でも体は動き、無思考の時は最大能力が発揮される。なぜなら直感に逆らわず身を任せて行うためである。その直感は意識(無)からやってくる。
直感に身を任せ、ゾーンのように高いパフォーマンスを発揮する瞬間も、無の意志として行動していると言える。そのため人間の最大能力が発揮される。直感とは無心の時に意識からやってくる。反対に不安や恐れ、邪念が心を占めた状態で活動をすると、パフォーマンスの質が低下する。これらは思考なので、直感のように瞬時に体が反応することよりも圧倒的にスピードが遅い。また、もし見返りを求める行動ならそれは欲からであり、そうでなければ純粋な行動と言える。
人間は気づいていてもいなくても、誰もが意識(無)そのもの。意識は永遠だが、肉体は一時的な衣服にすぎず、死ぬときには脱ぎ捨てる。つまり意識が生命の根源的なもの。これを知らなければ物質的なものや体、形に執着する。次の文章はアフリカと南アメリカに古代から伝わる至高の存在の説明。その神を意識という言葉に置き換えて読んでみれば、どの部族も古代から同じものを崇めてきたということがわかる。
「誰も子どもたちにニャメを指し示すことはできない。」
「世界は広いが、ニャメが長である。」
「すべて人々は二ャメの子孫であり、誰も大地の子孫ではない。」
「ホークは言う。ニャメのなす全ては良いことだ。」
「ニャメの定めた秩序を人間は破ることはできない。」
「ニャメの与える運命を逃れる道はない。」
南アメリカ大陸南端部のティエラ・デル・フエゴに住むヤーガン族は、ワタウィネイワ(最も古きもの)という至高の存在を信仰している。至高神は慈悲深い神であり、有形のからだはもたないが、天空に住まっている。
同じくティエラ・デル・フエゴに住むオナ族も、テマウケルという至高の存在を信仰している。テマウケルは身体も妻も子供もなく、常に存在しており、宇宙と社会的・道徳的な規範を支えている。彼は星辰(せいしん)の上方に在り、目には見えず、慈悲深く、人間の個々人が難儀に際して祈るときは、その祈りの聞き役となる。
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