輪廻転生と自我

無のシンボルだったインドのシヴァ神は、眉間(みけん)に第3の目を持った姿で表現されることがあり、この目は欲望を焼いて灰にする。欲望を焼くとは無欲になるということだが、無欲になることと関係しているのは、内なる目、心眼、直感、ゾーン、ブラフマン、真我(しんが)、輪廻転生(りんねてんせい)、解脱(げだつ)、悟りなど。

輪廻転生は死んであの世に帰った魂が、何度もこの世に生まれ変わることを言う。これは仏教、インド哲学で見られ、ギリシャでも哲学書パイドンの中で、プラトンの師ソクラテスが死と生まれ変わりについて次のように語っている。

「それではこの点からも、われわれは同意したのだ。死者が生者から生ずるのと同じように、生者は死者から生ずるのである、と。ところで、こういう事情であれば、それは、死者たちの魂が必ずどこかに存在していて、そこから再び生まれてくるはずだ、ということの充分な証明になる、と先ほどわれわれは考えたのだね

南アメリカの密林に住む先住民ヤノマミ族や西アフリカのドゴン族にも、死者は精霊となって死後の世界や天に帰るという概念があった。

南アメリカ南端部のティエラ・デル・フエゴに住むアラカルフ族は、至高の存在ソラスが新生児の一人ひとりに魂を入れ、人間が死ぬとその魂はソラスによって再吸収される、と信じている。


キリスト教の新約聖書では輪廻転生という表現はないが、コリントの信徒への手紙で死んだ人間が神の国で霊になって復活するという説明がある。

「死者の復活もこれと同じです。(中略)つまり、自然の命の体が蒔(ま)かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」

「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽(く)ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」

輪廻転生ではないが、西アフリカのアシャンティ人でも霊についての概念がある。ここではすべての個人がスンスム(自我)とクラ(生命の力)を受け取ると信じている。そして人間は自分の霊であるントロを、子供に伝達すると言っている。つまりアシャンティ人にも、古代からすでに自我や霊の概念が存在した。

話は戻り、輪廻(りんね)を抜け出して自由になることをインドや仏教では解脱(げだつ)と言う。これは煩悩(ぼんのう)の縛りから解放され、自由の境地に到達し、悟りとも表現される。煩悩(ぼんのう)、つまり人間の人生は欲望があるので執着が生まれ、それにより苦しむ。欲望は「私」という自我(エゴ)から生じ、無欲になるとは自我(エゴ)を滅するということ。解脱はインド哲学では最高目標とされ、人間が果たすべき人生の目的。この輪廻の繰り返しから抜け出すには、自我(エゴ)を滅するしかないということ。

シヴァの欲望を焼く第三の目の位置と解脱(げだつ)には関係がある。自我(エゴ)があることで思考が起こり、欲望が生じる。脳内を無思考にする時、そこに自我(エゴ)は存在しない。無思考は毎日誰もが瞬間的に経験しているが、意識的にその状態に在ることが自我(エゴ)を滅する方法。次はその行い方。



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