・ウパデーシャ・サーハスリー / シャンカラ
「生と死の川の中に落ちたものは、知識以外の何者によっても、そこから自分自身を救うことはできない。」
「虚空(こくう)のような、無身の境地が、充分に研究された聖典と推論にしたがって述べられた。もし人が、『私の』『私』というこの観念をすっかり捨てて、この境地に対して確信を持つにいたれば、解脱する。」
・ウパニシャッド
「知識の五つの器官が意(い"心")とともに静止するとき、理性もまた動かないとき、それを人々は最高の状態と呼ぶ。感官を動かさず静止させることがヨーガであると、かれらは理解する。そのとき、人は心を集中しうる。ヨーガとは実に起源であり、没入である。それは、言葉によっても、意思によっても、また眼によっても、得ることはできない。『それは存在する』という以外に、どうしてそれが理解されよう。」・覚醒の炎 プンジャジの教え
「『私は身体だ』と考える代わりに『私は意識だ』と自分に言いなさい。この二つのうち一つを選びなさい。そのどちらであなたは人生を生きるのか?自我か、意識か?人生においてあらゆることを行うには、意識が必要とされる。あなたは自我が人生をとりしきり、自我が決定したことを行動に移すと考えている。これが無知と呼ばれるものだ。」
「意識が命令するままに身体を行為させなさい。あなたは単なる道具でしかないことを知りなさい。もし『身体は私のものだ』などと主張せず、意識の中で意識として生きるなら、あなたは本当に自由な生を生きることだろう。」
「『私は身体だ』と考える代わりに『私は意識だ』と自分に言いなさい。この二つのうち一つを選びなさい。そのどちらであなたは人生を生きるのか?自我か、意識か?人生においてあらゆることを行うには、意識が必要とされる。あなたは自我が人生をとりしきり、自我が決定したことを行動に移すと考えている。これが無知と呼ばれるものだ。」
・現代人のためのヨーガ・スートラ / グレゴール・メーレ
「ヨーガとは、心のはたらきを止滅することである。その時、見る者は本来の姿にとどまる。」
「ヨーガとは、心のはたらきを止滅することである。その時、見る者は本来の姿にとどまる。」
・菜根譚 / 洪 自誠
・さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる / エックハルト・トール
「音よりも『沈黙』に意識を集中させましょう。外界の『沈黙』を意識することが、内面に静けさをもたらすからです。思考はぴたりと活動を止めます。すると入口が開きます。」
・信心銘(しんじんめい)
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English version Xinxin Ming "Inscription on Faith in Mind"
English version Xinxin Ming "Inscription on Faith in Mind"
・ニュー・アース 意識が変わる 世界が変わる/エックハルト・トール
「人生で出会う静寂に意識的になると、自分自身のなかの形も時間もない次元、思考やエゴを超えた部分と触れ合うことができる。それは自然界に充満している静寂かもしれず、早朝の自室に広がる静寂、あるいは音がふと途絶えたときの静寂かもしれない。静寂には形はない。だから思考を通じて静寂に気づくことはできない。思考は形だ。静寂に気づくとは、静かに停止しているということだ。静かに停止しているとは、思考抜きの意識でいることだ。静かに停止しているときほど、深い本質的な自分自身でいるときはない。静かに停止しているとき、あなたは一時的に個人という心理的、精神的な形をとる前の自分になる。静かに停止しているとき、あなたは一時的な存在を超えた存在になる。無条件の、形のない、永遠の意識になる。」・パイドン / プラトン
「魂は、なにかを考察する際に、視覚なり、聴覚なり、なにか他の感覚なりを通して、肉体の助けを借りる場合、(というのは、感覚を通してなにかを考察するということは、肉体を通して考察することに他ならないのだから)その時、魂は肉体によって一時も同じ有り方を保たないものの方へと引きずり込まれ、それ自身が彷徨い、混乱し、酔ったようになって目眩(めまい)を覚えるのだ。
(中略)
だが、魂が自分自身だけで考察する時には、魂は、かなたの世界へと、すなわち、純粋で、永遠で、不死で、同じように有るものの方へと、赴くのである。そして、魂はそのようなものと親族なのだから、魂が純粋に自分自身だけになり、また、なりうる場合には、常にそのようなものと関わり、さまようことを止め、かの永遠的なものと関わりながら、いつも恒常的な同一の有り方を保つのである。なぜなら、魂はそういうものに触れるからである。そして、魂のこの状態こそが知恵(フロネーシス)と呼ばれるのではないか」
・バガヴァッド・ギーター
「海に水が流れこむ時、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様に、あらゆる欲望が彼の中に入るが、彼は寂静に達する。欲望を求める者はそれに達しない。すべての欲望を捨て、願望なく、『私のもの』という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時においても、この境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃に達する。」
・ブッダのことば -スッタニパータ-
「ウダヤよ。愛欲と憂(うれ)いとの両者を捨てて去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨(かいこん)をやめること、平静な心がまえと念(おも)いの清らかさ、それらは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたしは説く。」
「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、の識別作用が止滅するのである。」
・ブッダの真理のことば・感興のことば
「思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。
来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。それが苦しみの終滅であると説かれる。水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。」
来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。それが苦しみの終滅であると説かれる。水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。」
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